テレビ局のルールに合わせる自分にモヤモヤ
――仕事が面白くなくなったと自覚したのは、いつ頃だったんですか?
【鈴木】僕は41歳から飲食業を始めました。東日本大震災の時に、会社員の人たちが「一致団結して頑張ろう」と言っていたのを見て、フリーであることに少し寂しさを感じて、自分のチームを作りたくなったんです。
引退した力士を応援するということで始めたちゃんこ屋の経営を通して、それまで会わなかった相撲界の人と会うようになってすごく刺激的だったんです。放送作家の仕事の中でいろんなバランスを考えてしまっている自分と、自分の好きな道で思い通りに生きている力士を比べるようにもなっていたんですね。
さらにサイバーエージェントと仕事をするようになってインターネットの世界を知り、ネットの脅威やテレビへの影響も客観的に俯瞰することができるようになっていました。それなのに、テレビ局のルールに合わせにいっている自分にモヤモヤが募っていたんです。それが40代前半です。
「おさむ部屋」は効率的だったが…
――ある時に、若いADのアイデアに対して、鈴木さんの意見が通ってしまったことで、そのADのアイデアを結果的には潰してしまうことになったんですよね?
【鈴木】30代ではAとBのアイデアがあった場合、自分の感性だけで「A」と言っていたのが、40代になると本当は「A」が面白いと思っているのに、一緒に仕事をしているプロデューサーさんのことを考えて「B」と言ったり、プロデューサーさんが「B」と言ったら、僕も「B」のアイデアを通すためにみんなを説得するようになっていたんです。それが結果的に、若い人のアイデアや意見を潰してしまったこともありました。
コロナでリモートが普及する前、僕はあるテレビ局でたくさん番組を持っていたので、自分とプロデューサーさんがいる会議室に、各番組の担当者が交代でやってきて打ち合わせをするようになっていたんです。一番効率的だったからその形になっていたんですが、周りでは「おさむ部屋にご意見を伺いに行く」という感じで噂されていたそうです。自分の感じ方と周りからの見え方が違っていたことに、僕は40代中盤まで気がついていなかった。
それが一番効率的だからと言いながら、そのシステムに自分があぐらをかいていたのかもしれません。僕を中心としたシステムにも若い人たちが不満を抱いていたことが徐々にわかってきたんです。