田中角栄と東京タワーの意外な関係

これで建設は順調に進むと思われたが、予期せぬところで横槍が入った。東京都が建築基準法に抵触するとして手続きを止めたのである。

NHK、日本テレビ、ラジオ東京のテレビ塔と異なり、新電波塔には屋根や壁を持つ展望台とアンテナ整備用の作業台(1967年に特別展望台に改修)が計画されていた。それゆえ、東京都は「工作物」ではなく「建築物」とみなしたのである。

当時、建築基準法では、建築物の高さは最大でも31メートルに規制されていた。渋谷の東急会館(東急百貨店東横店西館)と東急文化会館(五島プラネタリウム)はいずれも43メートルの高さだったが、これは例外措置を用いたものだった。

東京都は例外許可の運用が厳格なことで知られていた。それは、都の建築審査会会長の内田祥三東京大学名誉教授の方針が影響していた。内田は31メートルの高さ制限(当初は100尺)の制定に関わった一人であり、周辺環境に悪影響を及ぼす高層建築物をいたずらに認めるべきではないと常々主張していた。

当時、例外許可を受けてもせいぜい45メートルが上限と考えられていたが、タワーの展望台の高さは地上125メートル、作業台は約223メートルで基準を大幅に超過していた。

しかも敷地は都市計画公園と風致地区の区域内だった。内田が例外許可に同意することは考えにくかった。そこに、当時郵政大臣だった田中角栄が登場する。

田中に入れ知恵をした国会議員

田中は、1957(昭和32)年7月に39歳で史上最年少大臣に就任。その数日後、郵政官僚の浅野賢澄官房文書課長から、新電波塔の工事が滞っている旨の説明を受け、解決に乗り出す。

第64代内閣総理大臣 田中角榮(写真=内閣府首相官邸ホームページ)
第64代内閣総理大臣 田中角榮(写真=内閣府首相官邸ホームページ

自ら建設業を営み、議員になってから建築基準法の制定に大きく関与していた田中は、タワーを建築物ではなく工作物と解釈すべきであると石破二朗建設次官に進言。

これに建設省や東京都も納得し、工事が再開されることになる。田中角栄は自らの手柄としたが、その判断の裏には、自民党参議院議員の石井桂の助言があったと考えられる。

石井は東京帝国大学で建築を学び、戦前は警視庁で建築行政に従事、戦後、東京都の建築課長、初代建築局長を経て、国会議員に転身していた(なお永田町にある自民党本部〔自由民主会館〕の設計者は石井である)。

石井と田中の出会いは、田中が中央工学校で建築を学んでいた学生時代に遡る。非常勤で教鞭を執っていた石井は、若き日の田中に建築を教えていた。建築の基礎を学んだ田中は、その後、田中土建工業を興すことになる。石井は田中の恩師だった。石井の子供全員の仲人を田中が務める等、二人は公私にわたり親交があった。

石井は日本電波塔株式会社の依頼で技術顧問に就任し、この問題の解決にあたっていた。建築法規を熟知し、長年建築行政に携わってきた経験から、タワーのような構造物を通常のビルと同等に扱うことに疑問を抱いていた。

建築物ではなく工作物とみなすべきとの解釈を旧知の田中にアドバイスし、石井を慕う田中が建設省を説得、東京都の法解釈の変更につながったのだろう。都市計画公園かつ風致地区域内での建設には都の許可も必要だったが、いわば「国策プロジェクト」でもあったことから建設が認められた。