農閑期の貴重な収入源だった「箒」

戦国時代の猛将で、“豊臣秀吉に喧嘩を売った男”として名を馳せた九戸政実がかつて治めた九戸村。現在の人口は約5200人で、主な産業は農業や林業。この村の一角で高倉工芸は30年前から南部箒の生産に勤しんでいる。

工場は山間の村にある
撮影=プレジデントオンライン編集部
JR二戸駅から車で1時間弱。岩手県九戸村戸田の作業場は山に囲まれた小さな集落にあった

九戸村の冬は雪深く、農業ができないことから、元々、農閑期の収入源として箒を作って売る農家があったそうだ。その取り組みを村全体で推進しようと、60年ほど前に役場が音頭をとり、箒作りの講習会が村の学校で開かれたこともある。そこで技術を学んだのが高倉工芸の創業者、高倉徳三郎氏だった。高倉社長の父である。

ただし、あくまでもメインは農業で、箒作りは副業程度の位置付けだった。そんな家で育った高倉社長は地元の中学を卒業すると、盛岡市内の農業高校へ進学。その後、農業短期大学を出て3年ほど会社勤めをした。いったん九戸村に戻ると、今度は養豚場へ修行に出た。

「長男だからいずれは戻ってきて農家を継げと、小さい頃から親父や親戚に強く言われてきました。それが当たり前だと思っていたから、特に抵抗はありませんでしたね」

高倉工芸。左奥にあるのが事務所。右奥に作業場がある
撮影=プレジデントオンライン編集部
高倉工芸。左奥にあるのが事務所、右奥に作業場がある

養豚業からの完全シフト

高倉社長は親の言いつけ通り農業の勉強を続けていたが、その一方で、父は箒作りに本腰を入れ始め、それが少しずつ売れるようになってきていた。

「ちょうど私が実家に帰ってきた時に、養豚と箒の売り上げが同じくらいだったんですよ。そこで、これからはどちらが伸びるかを話し合いました。養豚は競争が激しく、規模を拡大していかないと駄目だけど、箒は職人がどんどん少なくなり重宝がられるのではないかと」

家族会議の末、将来性があるのは箒だとなり、農業をスパッと辞めて高倉工芸を設立した。1993年のことである。

しばらくして商品ブランド名を「南部箒」に。今までは「絨毯箒」や「魔法の箒」といった呼称で販売していたが、客にとってはどこで作ったものかが分からない。

「私が東京、大阪、名古屋などへ販売に行くようになり、岩手で作っている箒だとアピールしたほうがいいと感じました。とはいえ、『岩手箒』よりは、南部鉄器や南部せんべいといった有名品も既にあるから、『南部箒』にしたのです」

こうして南部箒は九戸村の工芸品ブランドとして、世に出回ることとなった。

南部箒を持つ高倉社長
撮影=プレジデントオンライン編集部
農閑期に作られていた箒を村の工芸品に押し上げた