「古典」「神様」としての登場

学術研究者のドラッカーへの注目とほぼ並行して、実務家の間でもドラッカーへの注目が高まっていました。日本で最初にドラッカーの著作が邦訳されたのは、1956年、自由国民社から刊行された『現代の経営』ですが、この翻訳者は「現代経営研究会」となっています。

これは、当時キリンビールの社員だった高木信久さんがフルブライト留学生としての渡米生活を終えてのお土産として同書の原著を6冊持ち帰り、それを重役に配って歩いたところ、当時の川村音次郎社長に翻訳を勧められたことに端を発しています。翻訳チーム(現代経営研究会)が結成され、版権を持っていた自由国民社に交渉して(既に他の研究者に翻訳を依頼していたそうです)、同書の邦訳は出版にこぎつけます。このとき、販売促進のアイデアとして企業経営者に注文カードとともに同書を郵送したところ、数日後には各企業から百部単位で注文カードが自由国民社に届くようになったといいます。こうしてドラッカーは日本の経営者に広がり始めたのでした(『文藝春秋』1981.10「『断絶の時代』ドラッカーとの邂逅のドラマ」)。

こうしてドラッカーへの評判が高まっていくなかで、ドラッカーを日本に招聘しようという話が出てくることになります。その経緯は三木國愛「P.F.ドラッカー教授・初来日(1959)の意義」(『経営情報学部論集』17-1・2、2003.3)に詳しいので概略だけ紹介します。1959年7月に日本事務能率協会(当時)の招聘により来日は実現し、箱根・富士屋ホテルで開催された第1回ドラッカー・セミナーは参加費4万円という当時にしてはかなり高額だったにもかかわらず、計120名が参加して盛況のもとに終了したといいます。当時の来日は『朝日新聞』でも報道されていました。

少し時が経ち、『週刊現代』1966年7月21日号の「あなたを襲うドラッカー旋風」では、5度目の来日公演の様子が紹介されています。このときは聴講希望者を抽選で絞らなければならないほどに注目は高まっていたようです。「ドラッカー教授の信者がいかに日本の経営者に多いか」という、「驚くばかりの人気」がこの記事では詳細に紹介されています。この来日時に、日本政府からも経営への貢献の功をたたえられ、勲三等瑞宝章が贈られていたことも話題となりました。

ちょうどこの1960年代半ば頃から、一般誌がドラッカーをとりあげ始めるようになります。この当時のドラッカーのとりあげ方は、概して言えば2つのパターンに整理することができます。

まず1つは、「経営の神様」としての注目です(『週刊現代』上掲記事、および『現代』1969.4「ドラッカーの『断絶の時代』は何を教えるか」 )。経営というものを理論的に考えてみようとする「経営学ブーム」を1950年代後半から1960年代にかけて生み出したのがドラッカーだという言及もしばしば見られます(『人物評論』1969.4「ピーター・F・ドラッカー “経営の霊感”を売る男」、『中央公論経営問題』1974年春「GMに見切りをつけたドラッカー」など)。

「経営の神様」として「経営学ブーム」を生み出した存在としてのドラッカーはこのとき既に、真剣に産業社会や企業経営について考えようとするビジネスマンが「一度はくぐらねばならない関門」「誰もが読まねばならない“古典”」だと述べられています(『週刊現代』上掲記事)。つまり、一般誌がドラッカーをとりあげ始めた最初期から、ドラッカーは「読むべき古典」として日本人の前に立ち現われていたのです。話を先取りすると、このようなドラッカーの位置づけは、今現在に至るまでほとんど揺らぐことはありません。

現在に至るまでほぼ同じことが論じられ続けている、というパターンは他にもあります。上述の『週刊現代』の記事では、ソニー副社長(当時)の盛田昭夫さんの「いっちゃなんですが、日本の経営学者諸氏は生きた企業の問題点をご存じない」という発言が紹介されています。このような「役に立たない学問/役に立つドラッカー」という切り分けもまた、現在に至るまでほぼ変わることなくなされ続けています。

一方このとき、学術研究者がとる反応も興味深いものでした。アメリカでは学問的にそれほど評価されていない、理論が体系的ではない、ジャーナリストに過ぎないといった、先の盛田さんの立場の対極に立ってドラッカーの「非学術性」を真っ向から切って捨てるタイプの研究者がまず多くいました。

あるいは『現代の経営』の邦訳監修に携わった経営学者の野田一夫さんのように、「彼は学者というにはあまりにも思想家的な、思想家というにはあまりに実際的な、実際的というにはあまりに学者的」として、ドラッカーの多面的な活動を肯定的に受け止めようとする研究者もいました(『週刊現代』1966.7.21「あなたを襲うドラッカー旋風」)。

また、先に紹介した『ドラッカー経営学説の研究』の藻利さんは同書の序文で次のように述べていました。「(ドラッカーの論述のなかに:引用者注)経営学の金山を見出しうるといっても、必ずしも過言ではないであろう。その埋蔵量はきわめて豊富であり、また鉱石の質もすぐれている。けれども、その鉱石はこの山から掘り出されなければならない。また、掘り出した鉱石は、さらにこれを、すぐれた精錬施設によって精錬しなければならない」(2p)。そして、ドラッカーの「ジャーナリスティックな妙味と文明批評的性格」(1p)を備える論述を学術研究者がより「科学的批判にたえうるものにまで鍛えあげて行く努力こそは、われわれに課せられた任務」(2p)であるとしていました。

最後にもう一人、三戸さんは上述の『ドラッカー――自由・社会・管理』のなかで、「(戦後復興を経て高度経済成長に突入していく状況下の産業界が:引用者注)現状肯定の思想的根拠を与えられたのであり、このような経営学者・思想家を他にほとんど見出すことができない」(13p)と述べています。三戸さんは同書において、社会告発的な初期ドラッカーの著作は初版すらさばけず、近年(当時)の現状肯定的な著作が何十万部も売れるという状況こそ象徴的であるとして、ドラッカーを読む日本人の心性についても冷静に捉えていました(247p)。

「経営の神様」としてのドラッカー。「役に立たない学問/役に立つドラッカー」という切り分け。その多面性。「金山」「鉱山」としてのドラッカー。日本の現状の応援者としてのドラッカー。他にも、ドラッカーの思想を真に理解するためには、ドラッカーの生い立ちから理解しなければならないとする「ドラッカーの伝記的理解」もこの時期から推奨され続けています。つまり、既に50年近く前、日本人がドラッカーと初めて出会ったこの頃から、現在のドラッカー観の構成要素のかなりの部分が出揃っていたのです。