人がわざわざ苦しい思いをして山に登るのはなぜか。プロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さんは「苦労や困難を乗り越えて山頂に立てば、視界は一気に開け、その達成感はどんな言葉をもってしても言い表せない。いつの時代でも、山は人間のチャレンジ精神の発露の場であり続ける。プロスキーヤーのぼくが、なぜ70歳を過ぎてからエベレストに登ろうと思ったかというと、『まだ登ったことがなかったから』というのは、あながち冗談ではない」という――。(第4回/全5回)

※本稿は、三浦雄一郎『90歳、それでもぼくは挑戦する。』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

山を登るイメージ
写真=iStock.com/Phynart Studio
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3歳からはじめたスキーは仕事であり、趣味であり、人生

スキーはわが三浦家の「本業」であり、「家業」のようなものです。滑ることは本来大好きで、そしてスキーはぼくの仕事であり、趣味であり、そして人生でもあります。

ぼくが生まれてはじめてスキーをはいたのは、3歳になったころだったそうです。青森市で生まれたぼくは父に連れられ、いまは世界文化遺産に登録された三内丸山遺跡近くの丘を滑って転んで遊んでいました。

小学校2年生になると、役人だった父の転勤で弘前市に引っ越しました。家は桜で有名な弘前公園の外堀から5分くらいのところにあり、雪が降るとスキーを持ち出して、お城の坂道をくねくね滑って遊ぶのが日課になりました。

父も役所の仕事が終わると、板をかついで坂道をのぼり、公園の電灯を頼りにスキーの練習に励んでいました。そのうちに、父のスキー仲間たちが集まってきて夜遅くまで夢中になって滑ります。

そんな父の姿を憧れの眼差しで見ていた記憶があります。練習が終わると、今度は家に集まってきて、ああでもないこうでもないと、熱っぽいスキー技術論がはじまります。ぼくは眠い目をこすりながら、わかるような、わからないような大人たちのスキー談義に聴き入っていました。

中学生になると、父に連れられて岩木山や八甲田山の山を滑り、スキー選手となってオリンピックを目指しました。

アマチュア選手としては挫折したことで、20代中盤からはプロスキーヤーとして、スキーが仕事になって、現在に至ります。