深夜に駆け付けた熱意がもたらした「粘り勝ち」
私がロンドンにいることをわかったうえで、マンダリッチ会長は無茶な提案をしてきました。ロンドンからマンチェスターまでは、車で片道4時間はかかります。到着は日をまたいだ深夜2時過ぎになりそうでしたが、状況を打開するためにはその言葉を信じるしかありませんでした。
一か八か、その場での合意に取りつけられるように知人の弁護士にも同行を依頼して、マンチェスターまで車を飛ばしました。
デンマークのあるクラブが能活に関心をもっており、移籍金の額についてその晩中にマンダリッチの合意を得る必要があったのです。
深夜2時過ぎにホテルに着きましたが、「もう遅いので、会長とは会えない」と嫌がらせのように言われました。しかし、深夜に駆けつけた熱意に打たれた財務の担当者が、交渉の窓口となってくれて会長への伝達役を買って出てくれました。その後、何度かやりとりがあった末、マンダリッチ会長は、ついに首を縦に振りました。
疲れ果てた担当者は、「やれやれ」という顔で握手さえ求めてきました。粘り勝ちでした。
代表クラスのGKを探していたデンマークのFCノアシェランで出場機会を得たおかげで、日本代表には選出されました。2004年のアジアカップでは、準々決勝のヨルダン戦で神懸かったPKストップで勝利の立役者となり、大会連覇に貢献しました。
川口の交渉を通じて確立したエージェントとしての覚悟
一方でノアシェランではポジションを勝ち取ることができずドイツワールドカップを目指すためにはクラブでの出場機会を増やす必要がありました。
それと同時に、できるだけ本人に好条件で日本に戻る方法を考えました。すでにベテランの域になっていますし、移籍金の設定が高いままだと本人が不利益を被る可能性があります。
ノアシェランの会長もなかなか強者でした。
「ノアシェランで試合に使わないのであれば、デンマークでの市場価値を考慮して移籍金は500万円程度が妥当でしょう」
と会長に告げ、できる限り違約金を低く設定することにより、日本での本人の年俸は国内トップクラスを譲りませんでした。それも複数年での契約です。それが川口能活というプレーヤーの価値であり、苦しんできた数年間の対価でもあると思ったからです。
このときもウインドウが閉まるぎりぎりでした。なかなか会長が「うん」と言ってくれないまま、日が暮れていきました。北欧のきれいな湖を見ながら、
「ああ、だめなのか」
そう悄然としていたところで、強化部長が色良い返事を電話でくれたのです。すぐに書類を取りにいって、ホテルからファックスしました。
あのときの湖の景色は忘れません。
ある意味マフィアのような大物と、一歩も引かずに渡り合えたのは、なぜだったのか。
日本のスター選手がひどい扱いをされて苦しんでいる。そこで私ができることは何か。何とか助けないといけない。資格云々ではなく、エージェントとしての覚悟と責任感が生まれたのは、間違いなくこの川口能活との経験だったと思っています。