チームからほされた川口は限界に達していた

難関の試験ではありますが、ライセンスを取った翌日から仕事がくるわけではないのです。でも、「エージェントとしての仕事」はとっくに始まっていました。

資格はまだありませんでしたが、能活をポーツマスの境遇からデンマークという新天地に導き、資格取得後にジュビロ磐田に良い条件での帰国を実現させたところまでは、エージェントとしての実地研修を経験していたといえるかもしれません。

実際、資格取得の前、能活がポーツマスを出る際の会長マンダリッチとのやりとりはタフでした。

移籍2年目の8月、つまり能活が楢崎正剛にポジションを譲った日韓ワールドカップのあと、クラブの追い出し工作は露骨になっていました。

日本の人気クラブから移籍金を払う準備があるという連絡がポーツマスに入っており、あとは能活の気持ち一つだとこちらに迫ってきていたのです。

しかし、本人はできればポーツマスで雪辱を果たしたいという気持ちで、でなければそれまでの数年間を無駄にしないためにも、イングランドのほかのクラブに移籍したいという希望をもっていました。移籍ビジネスの犠牲になって日本に帰国するように見られることだけは避けたかったのです。

孤独は限界まで達していて、どんな仕打ちにも心が傷つくほど、感情がもろくなっていました。

能活の話し相手になれるのは、自分と有元さん以外にいませんでした。プライベートな話や愚痴を聞くようになって距離は縮まり、正式にマネジメントを依頼されました。

引越しでリフレッシュし、代表にも復帰

そこからはとにかく動けるところに動きました。

正式な契約があるにもかかわらず、ユースチームの練習に参加させるという不当行為を選手会に訴え、さらに、人種差別を扱う団体にも相談しました。

移籍当初から住んでいたフラットから引っ越しをさせ、気分をリフレッシュしてもらいました。クラブからの露骨な嫌がらせは影を潜め、当面はサッカーに再び集中できるようになりました。日本代表の指揮を執るジーコの下で、代表チームにも復帰できました。

その年、2003年の夏の移籍市場が、契約最終年を迎えるポーツマスにとっては能活の獲得で使ったお金を取り戻す最後のチャンスで、私にとってもいかに売り抜けるかという、のるかそるかの勝負どころでした。