お金に愛される人は何が違うのか。1572年、富士山北口登山道が拓かれて以来、富士山信仰を受け継ぐ神道扶桑教の教主が、「お金が喜んで戻って来てくれる」使い方を特別に伝授する――。

※本稿は、宍野史和『運をつかむ心のほぐし方』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

お金のことで不安に押しつぶされそうな男性
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お金が満たしているものは「将来の安心」

約1万6000年前から約3000年前まで日本列島に住んでいた縄文人の姿を見てみると、体の形自体は現代人となんら変わりがありません。科学技術は進歩しているけれど、人類の進化としてはその時点である意味完成されているのです。

日本では683年頃に製造された富本銭、708年の和同開珎などが古代のお金として知られていますが、「お金」が流通する以前には、狩猟採集もしくは物々交換によって欲しい物を手に入れていたようです。

その頃の人がお金を必要とせずとも生きていたことを考えれば、極論を言うとお金などなくても生きていくことはできます。

とはいえ、令和の今、東京のど真ん中で尖らせた石を木の棒の先に付けてウサギを追いかけるわけにもいきませんし、柿の実を取ろうとするとそれは隣の家の柿の実だったりする。

日本でも山の中で自給自足の生活をしている人はおり、私はそういう人たちを尊敬しているわけですが、しかしながら、全国民にその生活を推奨するというのはあまりにもナンセンスだというのは誰でもわかることだと思います。

お金というのは今となっては生命を維持するためには必要不可欠なものであり、その存在を否定するなどということは、するべきではありません。

先ほど人類の進化はある意味完成されていると述べましたが、今も少しずつは進化しているはずです。しかし、食べずに生きるということは不可能。

つまり、お金の最大の目的は食料を確保するところにあるのです。

けれども、お金という「チケット」をいくら持っていようとも、それだけでお腹がいっぱいになることはありません。100万円のチケットを目の前に置かれたとしても、それ自体は食べることはできません。

ならば100万円より1升のお米のほうが嬉しいかというと間違ってもそういうわけではない。

それは、お金が満たしているものは空腹ではないからです。では何を満たしているかというと、それは「将来の安心」なのではないでしょうか。では、その将来の安心はどうすれば満たされるのか。それを考えないことにはお金について考えることもできないはずです。