もっとも弱い者に基準を合わせることが必要

しかし、信頼関係を築いたとはいえ、部下の仕事のスピードや精度に不満を抱くこともあるでしょう。

富士山信仰として行われる富士山登拝では、5人から10人の団を組んで山を登ります。その際、先達は体力の強い者に歩みを合わせるのではなく、子ども、ご婦人、お年寄りなど、いちばん体力の弱い者に歩みを合わせることを常としています。「元気のいいやつだけ先に行け」ということはしません。

神道扶桑教の富士山登拝。体力の弱い者に歩みを合わせ、ひとりとして残すことなく頂上を目指す。
写真提供=神道扶桑教
神道扶桑教の富士山登拝。体力の弱い者に歩みを合わせ、ひとりとして残すことなく頂上を目指す。

ただ単に頂上まで登れればいいというわけではなく、ひとりとして残すことなく頂上に立つということが、リーダーに課された最大のミッションなのです。そして、世の中も本来そうあるべきだと思います。もっとも弱い者に基準を合わせるということが必要だと思うのです。

山本五十六の言葉に見る「上司の本質」

私の知人に、「部下がしていることをまったく把握していない」人間がいます。「気にするから、気になるんだ」と彼は言いますが、別に部下について何も考えていないわけじゃない。

重要なことは本質が間違っていないかどうか。形式や作法は大事です。しかし、それだけが合っていてもどうにもならない。「部下が思い通りに働いてくれない」と嘆く上司は、何をもって「思い通りにならない」と感じているのでしょうか。

「こいつは俺が教えたやり方通りにやってくれない。もどかしい」

それは、部下が本質をわかっていないことに対してもどかしさを感じているのか。それとも、上司のあなたが本質をわかっていないから、もどかしさを感じているのか。どちらでしょうか? 本質がわかっていない上司というのは、とにかく形式を気にします。本質がわかっていない場合、とりあえず決められたものを守ることしかできないからです。神道の儀式においても、形式や作法が重要視されますが、それ以上に本質が大切なのです。