バブル崩壊で公営競技の売上は低落、撤退も

1960年、池田勇人内閣が誕生する。池田が提起した所得倍増政策は5年後に達成された。国民の物的生活が豊かになり、可処分所得の増大でレジャー需要が高まっていった。公営競技はレジャーのひとつとして急成長を遂げる。だが、高度経済成長の時代を迎え、公営競技の存在根拠だった戦後復興は時代にそぐわないものとなり、改めてその存在意義が問われることとなる。

池田首相は総理大臣の諮問機関として「公営競技調査会」を61年2月に設け、(*池田の二代後の大蔵次官を務めた)長沼弘毅を会長とする。61年7月に提出された長沼答申では、公営競技は「関連産業の助成、社会福祉事業、スポーツの新興、地方団体の財政維持等に役立ち、また大衆娯楽として果している役割も無視することはできない」ので「現行公営競技の存続を認め、少なくとも現状以上にこれを奨励しないことを基本的態度とし、その弊害を出来うる限り除去する方策を考慮した」と記されている。

その後、1990年に対前年度比名目8.6%と高い伸び率を示した国内総生産(GDP)は、93年には名目値でもマイナス0.1%のマイナス成長となってしまう。バブル経済が崩壊した。「わが世の春」を謳歌おうかしていた公営競技も売上が長期にわたり低落し、21世紀になると公営競技から撤退する主催者(*地方競馬を主催する地方自治体)・施行者(*競馬以外の公営競技を主催する地方自治体)が続出する。

金融のグラフ
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官から民へ「包括民間委託」が始まる

86年には民活法(民間事業者の能力の活用による特定施設の整備の促進に関する臨時措置法)が施行されている。地方行政改革の「官から民へ」の方針のひとつが「包括民間委託」だ。

競輪・オートレース・ボートレースでは競走実施は施行者が競走会(競輪は競技会)に委託する。それ以外の様々な業務が施行者の仕事だった。競馬では、審判、番組編成、馬場管理、出馬投票(出走意思の確認作業)といった競走実務、調教師や騎手それに馬主などへの対応など、競馬に関わる様々な業務がすべて主催者の仕事となる。包括委託とは民間業者がこうした様々な業務を一括して請け負うことだ。主催者・施行者が雇用していた従事員は、包括民間委託後、事業を受託した民間企業の雇用となる。

公営競技場や場外発売所で働く人たちで組織する自治労公営競技評議会は、「包括委託は競技場廃止への中二階」と表現している。確かにそういう面があることも疑えない事実だが、包括民間委託によって廃止を免れ、その後売上が回復基調に転じたことで生き延びた競技場は少なくない。