1000億円男・大谷翔平の出身地から消える1000年裸祭り
1000年以上の歴史を有する日本三大奇祭のひとつ「黒石寺蘇民祭」(岩手県奥州市)が、来年2月の開催をもって幕を閉じることになった。祭りの担い手の高齢化や、人手不足が原因だ。厳冬期に、屈強な男たちが夜通し、裸でぶつかり合うこの祭りは、かつては「わいせつ」と警察の指導が入ったほど。裸祭りは各地で実施されているが、多くが地方の人口減少と高齢化に直面し、厳しい運営を迫られている。本稿では、裸祭りの歴史と実情を紹介していく。
「金色堂」で有名な中尊寺から、さほど離れていない山間部に黒石寺(天台宗)はある。黒石寺は729(天平元)年、平城京の法相宗薬師寺の五世、行基が東北に巡錫した際、草庵を結んで薬師如来像を刻んで祀ったのがはじまりと言われる。そのため当初は薬師寺と呼ばれていた。
黒石寺と寺号を変えるのは849(嘉祥2)年に慈覚大師円仁(慈覚大師)がこの地を訪れ、伽藍を拡張整備した時から。この地では蛇紋岩(黒石)という暗緑色の岩石が多く出土する。円仁は裏山の蛇紋岩の岩屋で坐禅。それにちなんでその山を大師山、寺を黒石寺と呼ぶようになった。円仁が入った後は48もの堂宇(堂の建物)が建てられた。円仁と寺とを結びつけるものとしては、1047(永承2)年造立の僧形坐像、慈覚大師像が祀られている。
黒石寺は現在まで5回ほど火に包まれ、その都度再建している。現在の本堂は1884(明治17)年に再建された比較的新しいものだが、本尊の薬師如来坐像(重要文化財)は862(貞観4)年に造立された平安仏である。
黒石寺を象徴するのはなんと言っても奇祭・蘇民祭だ。1000年以上の歴史をもつ。毎年2月上旬(旧暦の1月7日)の深夜から明け方にかけて執り行われ、激しくぶつかり合って護符を奪い求める裸祭りで知られる。黒石寺蘇民祭は日本三大奇祭にも挙げられる。
蘇民祭は黒石寺のアイデンティティそのものと言ってもよい。蘇民とは、「蘇民将来」のこと。大陸由来の人物であり、その起源についてはよくわかっていない。伝承によればスサノオノミコトが南海に旅した時、蘇民将来という男が一宿一飯を提供した。これに喜んだスサノオは疫病流行の際には「蘇民将来子孫也」の護符を身につけた者は疫病から免れると約束した。
これが各地で派生して、さまざまな疫病退散の祭りに発展した。たとえば京都の祇園祭も、蘇民将来の護符が貼り付けられたチマキが授与され、各家庭の軒先に吊るす風習が続いている。
『蘇民将来符 その信仰と伝承』(上田市立信濃国分寺資料館、2006年改訂)によれば、全国には47の地域、寺社で蘇民将来の護符が頒布されている。新潟県は特に多く17カ所もある。