「失われた30年」で会社員はどう変わったか

それは、司馬遼太郎著『坂の上の雲』ではないが、当時の経営者、労働者、組合執行部は「青空の見える労務管理」という、「誰もが日本人の勤勉さ、真面目さを頼りに一生懸命働けば豊かになれる、豊かになろう」というこの言葉に収斂される。日本人は、この言葉に共感し、励みにし、団結した。

そして、見上げればそこに希望や期待が見いだせるような、どこまでも広く澄みわたる青空など、到底望むべくもない状況において、日本企業は「終身雇用制度」「年功序列型賃金」「企業内組合」という人事労務管理を考え、選択したのである。

これらの制度は、「とにかく共に貧しさや飢えから脱したい」「相応の暮らしを立てられるようにしたい」という願いから企業と労働組合、そしてそこで働く社員が「協調」して導入、定着させたものだ。そして、日本と日本企業は、高度経済成長という後にも先にもないような上昇気流に乗った。だが、膨張した風船はいつか萎む。

1991年にバブルがはじけて以降、日本経済は長きにわたり低迷し、失われた30年と言われてきた。そして、その30年と並走するように、ゆとり教育が導入され、就職氷河期世代がうまれ、企業はそれまでの年功序列型賃金を捨てて、成果主義型賃金を導入した。

日本旗の前に落ちるグラフ
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この企業が定義した成果に応じて処遇するシステムは、それまでの生活給や賃金カーブなどを過去の産物とし、たとえば40歳前後で課長になれなければ、以後定年退職するまで給料が上がらなくなったのである。また、企業によっては、高止まった総額人件費を乱暴に、強引に引き下げる狙いで、この制度を導入した。この制度が多くの企業で導入された2000年前後を振り返れば、たとえば新制度説明会において、憤り、不満、不安にかられた社員から、罵声を浴びせられたことがあった。

そもそも「成果」とはなにか

またその一方で、一部に成果主義をとり入れながらも、やはり年功型の処遇を維持した企業も数多くあった。これには、制度設計の中心にあるコンセプト、たとえば成果や能力というものに対する誤解も、どうやら介在したようだ。

そもそもの話になるが、「成果」とは「結果」ではない。しかしながら、成果主義導入の黎明期には、成果を結果と捉えてしまうことで「では、結果さえ出しておけば、他はどうでもいいのだな」というメッセージを、(図らずも)制度が組織や社員に発信してしまった。その結果、社員の協業や連携、挑戦やチャレンジ、そしてコンプライアンスなどの観点から躓いた企業もあった。

ちなみに成果とは、「能力+結果」のことを指す。つまり、成果とは企業が求める能力を用いて結果を出すことなのである。