浄土真宗の分裂騒動も利用した家康

次の徳川家康は、代々浄土宗を信仰してきた松平家に生まれ、戦場では浄土宗の思想を示す「厭離えんり穢土えど欣求ごんぐ浄土じょうど」の旗を掲げていました。「穢れたこの世を離れ、極楽浄土を求める」という意味です。

京都の百萬遍知恩寺
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信長に降伏した一向宗(浄土真宗)に対しても好意的でした。大坂を退去した本願寺は京都に移って教団としての存続が許されましたが、門主の地位をめぐる内紛で二つに割れます。家康はこれを調停して東本願寺・西本願寺を併存させ、いずれも幕府の敵対勢力にならないようにコントロールします。その辺り、家康はとにかくうまいのです。

一方で、天台僧の天海という謎の人物を軍師として身近に置き、信長が焼いた比叡山の復興を支援します。江戸の街のプランをつくったのがこの天海で、江戸の東北(鬼門)にあたる上野の山を比叡山に見立て、天台宗の東叡山寛永寺を置き、西南(裏鬼門)にあたる芝には浄土宗の増上寺をおいて、江戸の街を霊的に防衛するとともに、天台宗と浄土宗とのバランスを保ちました。

さらに家康が没すると「東照大権現」の神号を贈って神格化し、関東の鬼門にあたる下野(栃木県)の日光に家康を葬って日光東照宮を建立しました。

江戸時代の安定をもたらした「壇家制度」の確立

家康以降、江戸幕府はキリシタン取締りを名目に、全国の寺院を行政の末端機関として利用しました。これを檀家だんか制度といいます。

寺院に町村役場の役割を負わせ、「宗門改帳」という戸籍をつくらせたのです。これにすべての人民を登録させて、「私は浄土宗です」「私は真言宗です」と申告させる。今でも「うちは○○宗」と宗派が決まっていますよね。この仕組みは江戸時代初期に政治的理由でつくられたものなのです。

家康という人は、やり方が本当に上手です。キリシタンと一部の日蓮宗以外には露骨な宗教弾圧はせず、各宗派の存続を認め、幕府のコントロール下に置きました。つまり、宗教を飼い慣らし、じわじわと首根っこを押さえていったのです。

幕府の行政機関としての存続を保証された仏教各派は、このあと積極的に布教をしなくなりました。この頃から仏教は、現代まで続く「葬式仏教」へと変貌していくのです。

これ以降、江戸時代の思想には仏教がほとんど登場しません。それは宗教が世俗化され、どんどん骨抜きにされていったからでした。