ポルトガル人の蛮行に激怒した秀吉

九州平定のため乗り込んできた豊臣秀吉は、神社仏閣が壊され、日本人が奴隷として売り飛ばされる蛮行を見て激怒します。秀吉は「バテレン(宣教師)追放令」を出して、キリスト教布教を禁止しました。

結局、キリスト教は日本人にほとんど根付きませんでした。宣教師は、こう嘆きます。「日本人は決して愚かではない。キリスト教に対する好奇心も強い。それなのに、キリスト教を受け入れないのはなぜだ?」と。

答えは簡単です。キリスト教が日本の伝統的な宗教を否定したからです。宣教師たちが破壊を命じるその寺には、自分たちの祖先が眠っています。「イエス様ヲ信ズレバ救ワレマス」と彼らは言うけれど、「じゃあ、仏教徒だったうちのじいちゃん、ばあちゃんは地獄に行ったの?」。当時のキリスト教の教えでは、「異教徒は地獄に落ちる」と決まっていました。こう言われて、キリスト教に改宗するなど無理な話です。

延暦寺や石山本願寺と敵対していた信長は、「敵の敵は味方」ということで、キリスト教宣教師を優遇しました。しかし安土城に案内された宣教師ルイス・フロイスは、信長がクリスチャンになる気は毛頭なく、それどころか自らの神格化を図っているとして非難し、本能寺の変で信長が殺されたのは天罰だ、とまで語ります。

大仏は建てたが信心は薄かった

「バテレン追放令」を出した秀吉は、神道・仏教に対してどのように考えていたのでしょう。

秀吉の神道・仏教への考えがわかる、こんなエピソードがあります。秀吉は京都に、方広寺大仏殿を建てました。その資材に充てるため、という名目で「刀狩令」を出したのはよく知られています。

大仏殿には、奈良東大寺よりも巨大な木造大仏を祀りました。この大仏は黒漆の上に金箔きんぱくを貼った豪勢なものでしたが、わずか1年で地震のため損壊してしまいました。

激怒した秀吉は、大仏の眉間に矢を打ち込み、こう言い放ちます。「余は国家の安泰のため大仏を建立したのだ。ところがこの大仏は、自分の体も守れぬとは何ごとだ! 役立ず!」。この一件で、秀吉には神仏に対する畏敬の念のかけらもなかったことがよくわかります。

その一方で、秀吉は死後、豊国大明神として祀られています。信長ができなかった自身の神格化を、秀吉はやってのけたのです。