剣術界を一変させた竹刀と防具の登場

ところが、江戸時代の中期、竹刀と防具という画期的な道具がくふうされ、剣術は飛躍的な発展を遂げる。

誰かが突如ひらめきを得て竹刀と防具を発明したというわけではない。多くの人による試行錯誤と改良を経て完成したといえよう。

できるだけ実戦に近い形式で、しかも危険のない方法で稽古をするため、各人や各流派がそれぞれくふうをこらしていた。そんな例のひとつに袋竹刀ふくろしないがある。

竹刀
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16本から32本くらいに細く縦に割った竹を革の袋に詰めたもので、竹刀を「しない」と読ませるようになったのは、この袋竹刀がしなうからだという。また、袋竹刀を考案したのは神陰流の創始者の上泉伊勢守とされている。

神陰流の系統の柳生流では、この袋竹刀を早期から稽古に使用していた。袋竹刀を用い、素面すめん素籠手すこてで、つまり防具なしで打ち合っていた。袋竹刀で打たれてもとくに大きな怪我はしないが、同じ場所を何度も打たれると赤くれあがったという。

実践的な稽古ができる道場に入門者が殺到

そのほかにも竹刀や防具には様々なくふうと改良がくわえられていたが、正徳年間(1711〜16)、六代将軍家宣から七代将軍家継の時代、直心影流の長沼四郎左衛門が防具の面と籠手を実用的な段階にまで向上させ、芝西久保の道場で初めて用いた。

面と籠手をつけ、竹刀で打ち合うのであれば心おきなく実戦的な稽古ができる。これが評判を呼び、長沼道場には入門者が殺到した。

しかし、他流派は長沼のやり方に対して、

「あんなもの、子供の遊びではないか」

と冷笑し、依然として形の稽古を続けていた。

ところが、宝暦年間(1751〜64)になって、九代将軍家重から十代将軍家治の初期にかけて、一刀流の中西忠蔵が防具の面や籠手、胴にさらなる改良をくわえて完成し、大々的に道場で竹刀と防具による稽古を始めるにいたって、もう流れは止められなくなった。

従来の稽古形式に固執していては門人を失ってしまうと見て、ほとんどの流派や道場がこぞって竹刀と防具を採用し始めたのである。