剣術道場は江戸のベンチャービジネスだった
『賤のをだ巻』で、旗本の森山孝盛は――
今の人、精力も学力も劣りたる畳の上の工夫にて、我と流名を立つると云うは、途方もなき事なり。
と、若いにもかかわらず免許皆伝を受けるや、すぐに独立して門人を取る傾向に憤慨している。
この記述をしたのは享和2年(1802)で、著者の森山は65歳である。いわゆる老人の「昔はよかった。それにひきかえ、いまの若い者はなっとらん」式の苦言とはいえ、すでに享和のころには剣術界にあたらしい流派が続々と誕生していたのがわかる。
しかも、道場を開業しても指導法が親切で、わかりやすいと評判になれば入門者はふえ、剣術は充分にビジネスとして成り立った。とくに江戸においては、剣術道場は当時のベンチャービジネスだったと言っても過言ではない。
道場主はビジネスの観点から「来る者は拒まず」で、身分を問わずどんどん受け入れ、剣術の指導をした。
武士たちは町人や百姓を見くだしていたが…
だが、多数の庶民が道場にかよって剣術の稽古をしている状況は、支配階級である武士にとって苦々しいかぎりだった。
当時の武士の多くが、「町人や百姓に武芸などできるものか」と、庶民を見くだしていた。
現代でも、武士はみな武芸にひいでていたと思い込み、「町人や農民が武士にかなうはずがない」と信じている人は少なくない。
しかし、武芸にひいでた人間が選抜されて武士になるわけではない。あくまで武士は世襲の身分である。先祖は戦場で赫々たる武勲をあげた武勇の士だったとしても、子孫は平和な時代に生きていた。
剣術もスポーツである以上、天賦の才にめぐまれ、有能な師の指導を受け、かつ懸命に努力する者が強くなる。
なお現在、「剣道はスポーツではない、武道である」という主張もあるが、一定のルールのもと、身体能力と攻防の技術で勝敗をきそうという意味では、平和時の道場剣術はスポーツであろう。ここでは武士道論や修養論には立ち入らない。
武士のなかにも、才能のない人間や怠惰な人間はいた。いっぽう、庶民のなかにも才能にめぐまれ、身体能力にすぐれ、向上心を持った人間がいたが、これまでそれを生かす場がなかったにすぎない。
庶民が剣術の稽古をするようになってから、次々と傑出した剣客が輩出したのである。