江戸時代の日本では剣術ブームが起き、武士だけでなく町人、農民も日々剣術を磨いていた。なぜ平和な時代に人々は剣術をたしなむようになったのか。小説家・永井義男さんの『剣術修行の廻国旅日記』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
剣道
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江戸末期、700以上の剣術流派がしのぎを削る

ここで江戸時代の剣術界の状況について述べよう。

刀をあやつる技法である剣術は、日本人が鉄製の刀剣を用いるようになってから自然発生的に生まれたと思われるが、日本式の剣術が成立するのは源平時代と見られている。

しかし、その技法の伝授はごく身近な関係のなかで、たとえば親子のあいだなどでおこなわれたようで、史料として確認できるかぎりにおいて、まだ剣術の師匠として名を成した者はいなかった。

剣術の流派が成立し、師授とか伝授とかがおこなわれるようになったのは15世紀なかば、室町時代の将軍足利義政のころ以降である。

もっとも早く成立した剣術流派としては天真正伝新当流(神道流)、愛洲陰流、中条流、念流などが知られるが、流派の始まりや流祖については多くは神秘的な伝説にいろどられており、判然としない。

実際の源流はせいぜい三、四流にすぎなかったであろう。ところが、このわずか三、四流が江戸時代になって次々と枝分かれし、江戸時代末期には七百流以上に増加する。

木刀は危ない、だけど安全な稽古はつまらない

もはや日本刀が戦場の武器として用いられることがなくなってから、剣術は大きな発展を遂げたわけである。皮肉な現象ともいえるが、その発展の背景には稽古法の劇的な変化があった。

もともと剣法の攻防の技を教授するに際しては、刃引はびきした刀や木刀を使っていた。

しかし、刃引きした刀や木刀でも体を直撃すると大怪我をする。場合によっては死亡することもあるため、とても試合形式の稽古はできない。そこで、ゆっくりした動きで「かた」の稽古をするのが主流だった。

こうした形の稽古をしているぶんには危険はないが、延々と単調な動きを繰り返すのは退屈だった。しかも、自分がどれほど上達したのかがわからないもどかしさがある。

自分の強さをたしかめるには真剣を用いて斬り合いをするしかないが、戦場がなくなってから久しい。木刀の試合も打ち所が悪ければ死亡するため、簡単にはできない。

このため、師匠に入門しても途中で挫折し、やめてしまう者が多かったであろうことは想像に難くない。