被害を受けたかを公の場で聞くべきではない

その血が成立させる家族感こそがジャニーズの魅力のひとつでもある。1回目の会見後、CM契約をしていたクライアント等から「タレントは事務所を移籍するべき」との声が上がった。それはビジネスの論理からすれば正解なのかもしれないが、ファンからすればその実“家族の解体”を迫るものであり、大きく的はずれで暴力的とすらいえるものであった。

彼らが“家族”であるという観点からいえば、“ジャニーズ叩き”が理不尽なものである理由がもうひとつ浮かび上がってくる。

そもそも、ジャニーズのタレントたちは、ジャニー喜多川氏の性加害に関して“被害者”である可能性を有する人たちである。彼らに被害を受けたかどうかを会見で聞くなどはもってのほかで、むしろ加害することがないよう慎重に対峙たいじすべき人たちであることは明白だ。

さらに、彼らが“家族”であるという観点からすれば、彼らは“加害者遺族”でもある。具体例を挙げるまでもなく、この国では大きな事件が起きたときに、その加害者本人だけではなく、家族までも生きづらくさせるような空気ができあがる。それは報道加害といっていいものだろう。

会見場で待機する報道陣
撮影=阿部岳人
会見場で待機する報道陣

9月の会見で、新体制となったジャニーズ事務所は、ジャニー喜多川氏という“父”の罪を認めた上で、ジャニーズという名前を残す選択をし、自分たちの“家族”を守ろうとした。

だが、その後の世間のバッシングによって、社名変更からの廃業という、家族の離散まで強要された――そう映ってしまうのである。

メディアも事実より“空気”を優先させている

そして、過熱する報道自体も、正当性があるか疑わしいものも多い。

例えば、ジャニーズ事務所が文藝春秋社に対して名誉毀損きそんだとして起こした民事裁判の判決についても、東京新聞は文藝春秋社が「勝訴」という明らかな誤報を出していた。

2003年の高裁判決では文春側が4つの争点で敗訴し、文春側に賠償金120万円の支払い命令が下っており、ジャニー喜多川氏による行為については「真実相当性が認められる」としている。「真実相当性」という判決を「真実」という言葉に回収して語るコメンテーターもいる。

性加害は容認できないとはいえいくら何でもいい加減な報道であり、この国では事実よりも空気のほうが重要視されるのでは、と感じてしまうほどである。

筆者自身は「刑事裁判で有罪判決が出ていないから、ジャニー喜多川氏に罪はない」と言うつもりはない。法律で裁かれていない悪事も世の中には存在するだろう。だが、少なくとも、裁判で法的な責任が科されたわけではないにもかかわらず、「法を超えて」被害者を救済すると自ら宣言したジャニーズ事務所の対応は、そこまで責められるべきなのだろうかという疑問は強く抱いている。

そしてその“誠実さ”がカモにされているようにも感じるのである。