女性自身の成長の機会すらも奪っている

そもそも望月氏にかぎらずだが、女性ジャーナリストだろうが女性学者だろうが女性作家だろうが女性言論人だろうが、SNSを含むメディアやオピニオンの世界でリベラル・インテリ系中高年男性から「聡明だ」「理知的だ」「モノ言う女性だ」などと寵愛を受けがちな女性がしばしばオーディエンスから批判されているのは、「女性だから」ではない。そうではなくて、端的に言っていることがおかしいからフェアに批判されているのだ。ひとつの例外なく全てがそうだとまでは断言しないが、それがほぼすべてであるとはいえる。

黒板に描かれた拡声器を持つ手
写真=iStock.com/marrio31
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にもかかわらず、女性だからとヨシヨシしたがるインテリぶった中高年男性だけが後からしゃしゃり出てきて「女性だからと叩く風潮はけしからん(私は君たちと違い、このお嬢さんの言っていることにも耳を傾けてあげられるような進歩的価値観と男としての度量があるのだよ)」と、まったくわけのわからないことを言って得意になっている構図がある。

その女性への批判をする人びとをまるごと「ミソジニスト」や「性差別主義者」としてラベリングして封殺してしまうばかりか、それによって批判を受けていた女性自身の成長の機会すらも間接的に奪ってしまうのだ。

女性を“劣等”として見下している「ヨシヨシ爺さん」

皮肉としか言いようがないが、日本社会で真に聡明な女性/モノ言う女性がなかなか現れないのは、「聡明な女性だから叩かれる・嫌われているのだ」などと言いたがる慈悲深さによってコーティングされた性差別意識を内在化させた「ヨシヨシ爺さん」が、メディアの世界はもちろんだが、ジャーナリズムにしても企業社会にしてもあるいはその他の社会の各所でも相当に幅を利かせてしまっているからでもある。

「女の言うことだから、我々は頭ごなしに否定するんじゃなく、なんでも聞いて頷いてあげましょうや」という甘やかしを平然とやるような「ヨシヨシ爺さん」のせいで、女性は男性と同じ土俵・同じレベルの議論に参加することができなくなる。

「ヨシヨシ爺さん」の態度はたしかに女性の主観的にはやさしく、紳士的な態度をまとっているようには見えるだろうが、パフォーマティブには「女子供のいうことですからね。まっ、我々は寛大な心でそれを聞いてあげるのが男のたしなみというものですよ(笑)」と、女性を結局は“劣等”として見下しているに他ならない。