「成功への道」は現地人材の登用

<strong>大坪文雄</strong> おおつぼ・ふみお●1945年、大阪府生まれ。関西大学大学院工学研究科機械工学専攻修了後、松下電器産業(現パナソニック)に入社。98年6月取締役兼AVC社副社長、2000年6月常務取締役、03年1月パナソニックAVCネットワークス社社長、同年6月専務取締役。06年6月より現職。
パナソニック社長 大坪文雄 おおつぼ・ふみお●1945年、大阪府生まれ。関西大学大学院工学研究科機械工学専攻修了後、松下電器産業(現パナソニック)に入社。98年6月取締役兼AVC社副社長、2000年6月常務取締役、03年1月パナソニックAVCネットワークス社社長、同年6月専務取締役。06年6月より現職。

「一目之視也、不若二目之観也。一耳之聴也、不若二耳之聴也」(一目の視るは、二目の観るに若かず。一耳の聴くは、二耳の聴くに若かず)――中国・春秋時代の墨●(ぼくてき)の教えを収めたとされる『墨子』にある言葉で、一つの目だけでみるよりは、二つの目でみたほうが物事はわかる、一つの耳で聞くよりは、二つの耳で聞くほうが本当のことがわかる、との意味だ。国を治める要諦は、人々の実情をよくみて、生の声をよく聞くことだとする教えで、企業経営にも通じる。「グローバル化の先行体験」は、大坪流の「二目二耳」が支えた。※●=曜の右側

無論、「すべてを、自分たちだけでできる」などと慢心することは、戒めた。グローバル経営では、単に日本でやっていたことを持っていけばいい、ということではない。「どこの地で、何をするか。それも、将来にわたって成長をするために、どうするのが最適か」との視点が不可欠。それを痛感した5年半だった。

シンガポールでは、天然資源に乏しい国としての生き方も学んだ。日本と似た条件下にあるが、人材を海外に求める点が大きく違う。広い住居を用意して「こんなに素晴らしい住環境があります」とアピールする。様々な国籍の子弟向けに、インターナショナルスクールも整える。すべて自国人で完結させようという「自前主義」など、捨てていた。税率も低く、「いかに、海外から人や企業に来てもらうか」に懸命だった。日本は、いま同じ課題に直面しているが、政府にも国民にも、あれほどの真剣味がないのが残念だ。

94年夏に帰国、1年後にオーディオ事業部長となる。48歳。またも、大赤字の事業の再建を託された。結局、入社以来オーディオ・ビデオ部門の副社長になるまで、立ち行かなくなり、いずれは消えて海外へ移る事業ばかりを担当した。地味で、厳しい歩みではあったが、日本のどの電機メーカーもが直面し、克服しなければならない道だった。持ち前の几帳面さと駄洒落好きの明るさ。それが、支えてくれたのだろう。

痛みを伴うことは、短期に終わらせないといけない。事業部長になって、すぐに広い部屋から小部屋へ移り、組織をスリム化し、20人いた部長を半減させる。社内には「いいものをつくっても売れなければ、買わないほうが悪い」といった供給者の論理があり、自由に物を言いにくい雰囲気もあった。デザインの企画などで、積極的に物を言う人間なら若くてもかまわないことに変えた。ここでも「二目二耳」が生きた。

グローバル経営には、息をつく暇もない。中国やインドなど新興国の経済成長に乗り遅れたら、未来は拓けない。インドで言えば、最近、まだ年間500億円止まりの売上高を、2000億円へ飛躍させるプロジェクトをスタートした。その議論をした最初の会議に、日本人しかいなかった。「おかしい、なぜ、日本人だけでやるのか」と指摘したら、2回目はインド人が4人やってきて、提案内容を説明してくれた。

それぞれの国に、販売手法からアフターサービスまで、日本と全く違う文化があっておかしくない。相手国の生活様式を研究し、現地の人間を信頼して、日本からは過去の成功事例を参考までに示すだけにとどめることが大事だ。先々は、成果に即して、インドで開発や設計もやってもらいたい。すべて、シンガポールで学んだ「成功への道」だ。

海外事業の展開では「日本人でやるな」と繰り返す。現地のトップに日本人を送り込んだりすると、本社のほうばかりをみてしまうからだ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)