最初から天下をねらっていたわけではない
次に天下についてだが、柴裕之氏はこう書く。「家康は、同時代の『日本国』の態様や社会に規定され、活動した政治権力者であった。そして、彼が天下人になったのは、当初より必然のものではなく、この時代に適った政情への対処が導いた歴史的結果であった」(『徳川家康』)。
すなわち、家康は織田権力、豊臣権力のもとで力を蓄え、たまたま到来した時機に適切に対処できた結果として天下がとれた。後世のわれわれは家康が天下をとったと知っているので、逆算し、家康や家臣団も早い時期からそれをねらっていたと考えがちだが、この時期の家康に、みずから天下をとるという目算があったとは思えない。
ところが「どうする家康」では、かなり早い時期から、家康も家臣たちも天下を意識している。それは「お方様がめざした世」に家康や家臣たちの思いを結びつけるための、強引な設定だというほかない。
そして最後に、家康が秀吉に臣従した理由である。そもそも家康は、天正13年(1585)11月29日に発生した天正地震で秀吉の勢力圏が甚大な被害をこうむらなければ、翌年正月に秀吉の軍に攻められ、成敗されていた可能性が高い。
家康が秀吉の臣下になったわけ
このことはドラマではサラリとやり過ごされてしまったが、家康もさすがに、秀吉との戦力差が日を追って段違いになるのを実感していただろう。天正14年(1586)になると織田信雄の周旋もあり、家康は秀吉に従うことを申し出て、2月8日、秀吉は家康成敗の中止を決めている。
秀吉の妹の旭が家康に嫁いだのは、それを受けてのことだった。続いて上洛を促す秀吉の使者が岡崎を訪れ、秀吉の実母の大政所を三河まで下向させるというので、上洛を約束した。要は、秀吉が強大な戦力を背景に、身内を人質に出してまで臣従を求めてきた以上、もはや断れなかった。そこに「お方様がめざした世」が介在する余地はない。
では、「お方様がめざした世」とはなんなのか。簡単に振り返っておきたい。
ドラマでは、瀬名こと築山殿は自邸である岡崎の築山に、宿敵だった武田氏の重臣をはじめ多くの要人を集めており、家康の家臣たちはそれを不穏な動きとして察知。
そこで家康が家臣らとともに踏み込むと、築山殿は「私たちはなぜ戦をするのでしょう」と語りだし、「奪い合うのではなく与え合うのです」と説いた。すなわち、隣国同士で足りないものを補い合い、武力ではなく慈愛の心で結びつけば戦は起きない、という主張で、それが「お方様がめざした世」だというのである。