「天下をとることをあきらめてもよいか」
数正は屋敷に自作の仏像と押し花を残していた。それについて於愛が推測した。「いまはなきあの場所を、数正殿はここに閉じこめたのではありませんか。いつも築山に手を合わせておられたのではありませんか」。庭にたくさんの花が咲いていた築山(築山殿の住居)を思い出させ、彼女が願った平和への願いを家康と家臣たちに伝えるために、数正は押し花を置いていった、というのだ。
それを受けて忠勝は「懐かしい。築山の香りだ」という。正信が「なんとも不器用なお方じゃな」と感想を漏らすと、忠次が「それが石川数正」と継ぎ、家康に「殿、そろそろお心を縛りつけていた鎖、解いてもよろしいのでは。これ以上、お心を苦しめなさるな」と提言した。
家康が泣きながら「平八郎(忠勝)、小平太(康政)、わしは天下をとることをあきらめてもよいか。直政、みな、秀吉に、秀吉に跪いてもよいか」と問うと、重臣たちは「数正のせいじゃ」「やつのせいでわれらは戦えなくなった。悪いのは数正じゃ」などと、嗚咽にむせびながら叫びはじめた。
骨太のドラマは一挙にメルヘンの世界へと舞台転換してしまったのである。
家中の政争に敗れたから数正は出奔した
こうして「築山殿の亡霊」を描くことで生じた問題は、大雑把にいって3点ほど指摘できる。
ひとつには、石川数正が家中の政争に敗れて出奔したという史実が見えなくなってしまった。続いて、家康が早くから天下をとろうと目論んでいたということが、暗黙の了解になってしまった。最後に、家康がなぜ秀吉に臣従したのか、肝心の理由がわからなくなってしまった。
まず石川数正だが、家康を守りたいという気持ちがあったことを否定する材料はないものの、出奔した理由は、徳川家中の政争に敗れたからだった。秀吉との外交を担当し、秀吉の勢力の強大化を知悉していた数正は、秀吉に人質を出すことを提案したが、主戦派が多数の渦中で総スカンを食らい、孤立無援の状況に置かれた。
黒田基樹氏が「外交取次は外交が失敗すれば、その政治的地位を失ってしまうものであった」(『徳川家康の最新研究』)と記すように、徳川家中にいられなくなり、命さえ危うくなったから、すでにリクルートされていた秀吉のもとに奔ったのである。