大きな壁は法律と世間の声
今回、わが国を代表する文化施設の一つである国立科学博物館がこの種の施策を実施し、それが大きく成功したことで、おそらくその他多くの文化施設にとっても同種の施策を打ちやすい社会環境になったのであろうと思います。
しかし、この種の施策のリスクとなっているのが、先述の博物館法第26条の「公立博物館は、博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合のみに限って必要な対価を徴収することができる」とする規定です。
上記のような国立科学博物館が行ったクラファンの実施手法がこの法の規定に抵触すると判断された場合、このような自主的な取り組みができなくなる可能性もありますし、そもそもこの法律の下では諸外国では一般的なこの種の施策を「恒常的に行う」ことはできないのが現状なのです。
そして、この法の改正を阻んでいるのが、社会教育のための機関である公立博物館は「全ての市民に平等に開かれた存在でなければならない」とする社会認知です。
社会の実情にあっていない
実は博物館法第26条においては、この社会認知を論拠として法の改正に強く反対する議員が存在するといわれています。また同時に、実はこの法改正が実現した場合、独自収入獲得に向けた創意工夫が求められる立場になる博物館関係者側にも、この条文の改正に水面下で強く反発するグループがあり、それらが障害となって法改正が実現しないままでいるのが実情であるようです。
博物館法の掲げる「博物館は同時に社会教育のための施設であり、多くの市民に対して平等にその機会を提供しなければならない」とする理念はもちろん崇高なものであり、そこに守るべき価値は当然ながらあるでしょう。
一方で、その文化資源を利活用し自主財源を稼いでゆくことは世界的には至極一般的な活動であり、むしろ特別なサービスに対して高額拠出をしてくれる人が「いるからこそ」、通常の博物館運営における「平等な教育機会の提供」が維持できる。そのような考え方が世界的には一般的であると言えます。
少なくとも、常設展示における数百円の微々たる入館料すらも「博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合」という一種の「言い訳」をしながら徴収をせざるを得ない現在の博物館法第26条のあり方は社会の実情にあっていないわけで、今回の国立科学博物館のクラファン成功が注目を集める中、もう一度、博物館運営のあるべき姿を社会全体で考え直してゆく必要があるのではないか。そのように考える次第です。