分子の形を自在に変えて望みの分子をつくる

その後、第2次世界大戦が始まると、アメリカは国策としてガソリンと合成ゴムの大量生産を計画し、石油化学コンビナートが勃興します。石油から航空機用高性能ガソリン(ハイオク)をつくるための化学反応や触媒の探索により、石油化学が着実に力をつけていくのです。

1949年には、接触改質(リフォーミング)という新しい革命的な技術が広がります。おもに石炭の熱分解で得られるコールタールからつくられていた、芳香族といわれるベンゼン、トルエン、キシレンといった分子を石油から大量生産できるようになったのです。

石油に含まれる炭化水素の長い鎖状の分子(炭素数6〜8)を、あたかもフランスパンを丸めて大きなドーナッツ状にするような化学反応で形を変えて(まさにリフォームして)、ベンゼン、トルエン、キシレンなどを大量生産する手法です。

触媒を使った画期的な技術の発明によって、石炭を中心にした時代から、石油が中心の時代へと急速に時代が変わっていきます。

熱で分解する反応や触媒を使った化学反応、混合物の分離などの技術が次々に生まれて、石油に含まれる分子をあたかもブロック玩具を組み替えたり、引き抜いたりするように、自在に分子の形を変えて望みの分子をつくれるようになります。こうして、巨大な石油化学工業へと進化してきたのです。

そして、今日の自動車が走りまわり、モノが溢れる大量消費社会へと進んでいきました。

資源貧乏だからこそコンビナートを建設した

戦後、アメリカの巨大な多国籍石油メジャーが、世界を牛耳りました。

自国に油田のないイギリスやドイツ、日本(新潟と秋田の小規模油田のみ)は外貨のドルが不足していたので、アメリカ産の高い石油製品を貴重なドルで買うよりも、安い原油をドルで買って自国で精製するほうを選びました。

こうして各国で、石油精製、石油化学を組み合わせた石油化学コンビナートが建設されていきます。アメリカ以外で、石油化学コンビナートの原型ともいうべき石油化学工場がはじめて誕生したのがイギリスです。1951年6月、ミドルズブラのティーズ川河口のICIウィルトン工場が、石油化学の工場として稼働しはじめました。

日本では、1955年に、通商産業省(現在の経済産業省)の主導で石油化学コンビナートが計画されました。かつての海軍や陸軍の燃料廠(燃料の製造貯蔵設備)などを財閥系化学企業に払い下げたり、埋め立て地をつくって誘致したりして、鹿島、千葉、川崎、四日市、堺、水島、岩国、徳山、大分など、太平洋ベルト地帯に石油化学コンビナートが建設されていったのです。