「あたりまえの日常」に感謝する方法
そもそも、文明が進むにつれて、人が感謝の行為を示す機会が減っていったのかもしれません。“便利な日常”をごく「あたりまえ」のこととして、感謝することもなく過ごしています。でも本当は、日常はあたりまえのものではありません。
たとえば大きな地震が起きて停電や断水が起きたりすると、たちまち困ってしまいます。そして電気や水がいかに大切で必要なものだったかを痛感し、それが復旧すると「ああ、よかった。ありがたい」と感謝するでしょう。
ところが、しばらく経つと、そんな思いなどすっかり忘れて、以前と同じように、“何事もない日常”があたりまえだと思うようになってしまうのです。
これは、人間は予期せぬ出来事に対して、心が過剰に反応しないように、自分にとって都合の悪い情報は無視したり、過小評価したりするという特性(正常性バイアス)を持っているからかもしれません。あれこれ心配ばかりしていると、ストレスで疲れ果ててしまうのを防ぐための機能です。
でも、そこでちょっと立ち止まって考えてみてほしいのです。私たちのまわりにあふれているあたりまえは本当にあたりまえなのか、と――。
電気があるのは発電所があり、そこに働いている人がいるおかげです。水道の蛇口からきれいな水が流れてくるのも、水道施設を維持し管理してくれる人たちが24時間働いてくれているからです。
どれだけ視座を高められるか
また、スーパーに行けば、野菜や肉など新鮮な食材がそろっていますが、それも生産者や流通業者ががんばってくれているからであり、バスや電車が時間どおりにやってくるのも、多くの人がそれぞれ責任を持って働いてくれているからにほかなりません。
そういう意味では、私たちがあたりまえだと思っている生活は、本当に多くの人々の存在があってこそ成り立っているものであり、この世の中にあたりまえのことなんてひとつもありません。
もっと極端なことをいえば、地球が存在しているのは、そもそも宇宙が存在していたからであり、その地球で人類がこれほど繁栄しているのは、地球が進化する過程でじつに多くの生物種が誕生し、それらの生物が共存しているからこそといえます。
つまり、私たちの存在はけっしてあたりまえのことではない……。偶然の産物ではなく、数えきれないほどの奇跡の上に成り立っているのです。
話が少し大きくなりすぎたかもしれませんが、そんなことを考えると、私たちは、けっしてひとりで生きているのではないということにあらためて気づかされますし、「小さなこと」への感謝の気持ちが湧いてくるのではないでしょうか。
そして、そんな感謝の気持ちをきちんと伝えるのが大切であることを忘れてはいけません。
アメリカの作家ウィリアム・アーサー・ウォードは、こういっています。
「感謝の気持ちを感じたのにそれを伝えないことは、プレゼントを包んだのにそれを渡さないようなものだ」と。
本当に、そのとおりだと思います。
あたりまえのことをあたりまえと思わず、小さなことにも感謝できるかどうか。
そこが分かれ道です。