進駐1週間で米兵による犯罪は900件を超えた
これは内務省保安課が9月4日に出した「米兵ノ不法行為対策資料ニ関スル件」に倣ったものと考えられる。女性に対しては「死をもって貞操を守る気概を」と説き、並行して性暴力の防波堤としての「慰安所」の開設を警察が自ら行うのである。
進駐後1週間の9月5日までの米兵の犯罪件数は、強姦9件、傷害3件、武器強奪487件、物品・金銭の強奪411件、家屋侵入5件、その他16件、計931件であったと『毎日新聞神奈川県版』(1945年9月8日)で報じられている。しかし、9月以降の犯罪統計はGHQの検閲によって禁止されることとなったため全容は不明であり、この数字は氷山の一角であると考えられる。
国より先に警察自らによる「慰安所」開設
ポツダム宣言を受諾した直後の8月18日、内務省警保局長から全国の道府県知事と警察長官へ占領軍兵士向けの性的「慰安所」をつくるようにという無電秘密通牒(「外国軍駐屯地における慰安施設について」)が発せられ、占領軍進駐先に「慰安所」がつくられた。
神奈川県の場合、内務省警保局からの指示より3日前の8月15日、正午の天皇による「終戦詔書」のラジオ放送を聞いた後、午後3時からの警察署の監督者打合せ会議において「慰安所」の設置の指示が出されている(*5)。
指示を出したのは藤原県知事で、渡辺次郎警察部長の下、保安課長、次長がその任にあたり、県衛生課長らが衛生面で協力した。警官自ら出向き、疎開していた接客業経験者80人をかき集め、横浜市の山下町のアパートに互楽荘を開設した。
「婦女子」には避難勧告を行う一方で、芸娼妓は「慰安婦」用に呼び寄せたのである。米軍上陸後の8月30日には、互楽荘へ数千人の兵士が殺到した。そのほとんどが正規の外出許可を受けずに勤務中抜け出した者で、武器を携行していた。支払いはタバコ、菓子などで行われることが多かったが、後に円で支払うようになった。