男性は「やむを得なかった」「最善を尽くした」

国に先駆けて占領軍向け「慰安所」を設置した始終を克明に記す『神奈川県警察史 下巻』は、これらを記したのち、保安課長・降簱節の以下のような言葉を書き加えている。

私たち警察部保安課のやったことがよかったかわるかったかはともかくとして、日本の一般の婦女子が進駐軍兵士の牙にかからずすんだというのは、これはこの時の女たちの献身のためとも言えようし、また私たちも、あれはあの時としてやむを得なかったことだし、いま言ったような意味で最善をつくしたんだというふうに思っているわけです(*14)

この言葉には、「性の防波堤」論に立ち、女性を「一般婦女子」と性売買者に二分化し、前者を守るために後者が「献身」してくれた、そのために自分たちは最善を尽くした、という自己免責の論理がある。このような論理は、上は政府肝いりのRAA(特殊慰安施設協会、Recreation and Amusement Association)幹部から、下は地方で占領軍「慰安所」を開設した警察の担当者まで、立場を問わず男性たちに共通する。

「神奈川方式」は各地で応用実践された

神奈川県には各府県から警察署員が視察にやってきて、警察部主体の「慰安所」開設方法である「神奈川方式」を学び、各地でそれを応用実践した。

平井和子『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)
平井和子『占領下の女性たち 日本と満洲の性暴力・性売買・「親密な交際」』(岩波書店)

また「慰安所」は県や警察だけではなく、地元の有力者が開設する場合も多くあった。敗戦時に各府県知事が民衆の動向を内務省へ上げた報告書のなかには、一部の右翼が「慰安所」を設置している例もある。旧国粋同盟総裁、笹川良一の実弟(良三)を社長、旧幹部(岡田多三郎、松岡三次)を総務として、9月18日、大阪市南区の食堂跡地に連合軍「慰安所」・アメリカン倶楽部が開設されている(*15)

(*1)細川護貞『情報天皇に達せず』下巻、1953年8月26日頃、同光社磯部書房、430頁。
(*2)『神奈川県警察史』下巻、1974年、21頁。
(*3)粟屋憲太郎・中園裕編『敗戦前後の社会情勢』第七巻「進駐軍の不法行為」現代史料出版、1999年、54頁。
(*4)「神奈川県に於ける聯合軍兵士関係の事故防止対策 神奈川県警察部」粟屋憲太郎編『資料 日本現代史62』大月書店、1980年、310-315頁。
(*5)山本圀士「終戦前後の思い出」『横須賀警察署史』1977年、367頁。
(*6)『神奈川県警察史』下巻、348頁。
(*7)同前、355頁。
(*8)同前、349頁。
(*9)同前、347頁。
(*10)同前、354頁。
(*11)『敗戦時全国治安情報』第2巻、202頁。
(*12)川元祥一『開港慰安婦と被差別部落――戦後RAA慰安婦への軌跡』三一書房、1997年。
(*13)前掲、『神奈川県警察史』下巻、357頁。
(*14)同前、352頁。
(*15)前掲、『敗戦時全国治安情報』第6巻、122-123頁。

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