光秀のしくじりは家康の工作

だが、定説などお構いなしにドラマは進行する。

安土城で家康は信長の歓待を受けるが、饗応役の光秀が淀の鯉を出すと、家康は何度も臭いを気にする。信長が「臭うならやめとけ。当たったら一大事じゃ」と言うので、光秀が申し開きをすると、信長は激高して膳をひっくり返し、光秀を3回、4回、5回と殴った。

直後、光秀が中国地方の毛利氏を攻めている羽柴秀吉(ムロツヨシ)の援軍に行くことが決まると、家臣が家康に「もくろみどおり明智を遠ざけましたな」と言う。鯉の臭いを気にしたのは家康の策略で、そのために光秀が排除されたという描き方なのだ。

そこに光秀が謝罪に現れ、「上様はしくじりを決してお許しにならぬお方。よくご存じのはず。私はもう終わりました」と、家康に向かって話した。

要は、家康が信長を討つ際に邪魔が入らないように、近在にいて邪魔になりかねない光秀が饗応に失敗するように芝居を打ち、その結果、追い詰められた光秀が本能寺の変を起こして、家康は信長を討つ機会を逸した――。そんなストーリーだったのである。

信長と家康の本当の関係

最大の問題は、繰り返しになるけれど、家康が妻子の命を奪われたことで、何年にもわたって信長を恨み続けているという設定である。だが、築山殿と信康が死んだ松平信康事件は現在、以下のように考えられている。

徳川が対武田に苦戦し、滅亡もありうる状況下で、築山殿は家臣団とともに武田側に内通し、息子の信康とともに生きる道を探ったが、事前に発覚。それが信長の知るところになると、今度は家臣団に対して多数派工作を画策した――。

これは家康自身にとって痛恨の汚点であり、放置すれば家が分裂しかねないのでやむなく2人を処分したのであり、信長を恨むべき話ではまったくない。そもそも柴裕之氏が言うように、「戦国大名や国衆にとっての優先事項は領国『平和』の維持にこそあった」(『徳川家康』平凡社)。家康の妻子は、その「優先事項」を侵害したのである。

百歩譲って、家康が信長を逆恨みしていたとして、私怨から信長を討とうと考えるとは到底思えない。家康は信長と同盟を組み、事実上の臣下であったからこそ、宿敵の武田を滅ぼし、あらたに駿河を領国にできた。家康にとって「領国『平和』」は信長のおかげで維持されていたと言っていい。

対武田の防波堤だった家康は、武田の滅亡後は信長にとって用済みになった――という主張もあるが、受け入れられない。関東や北陸、東北には北条や上杉をはじめ有力大名がいまだひしめき、信長は家康の力を依然として必要とした。

つまり、家康が信長を討つ動機は、どこにも見当たらないのである。