なぜ光秀は本能寺の変を起こしたのか

一方、光秀には動機があった。

ちなみに、ドラマで描かれたような饗応役の失敗は、事実とは思われない。江戸時代に書かれ、内容に信がおけないとされている『川角太閤記』には、光秀が家康一行のために準備した生魚の悪臭が漂い、信長が激怒したという逸話がある。

しかし、光秀が饗応に失敗したという話は信頼できる史料には一切書かれておらず、『川角太閤記』への記載はかなり以前から、俗説として退けられている。

現在、光秀が本能寺の変を起こした動機として、ほぼまちがいないと考えられているのが四国説である。

じつは本能寺の変が発生した直後から、主な公家や織田家の家臣たちが、原因は信長の四国政策の変更だと見ていた(『晴豊公記』『言経卿記』など)。

「四国政策」の失敗

信長は当初、大坂本願寺と組む阿波(徳島県)三好家を攻略するため、土佐(高知県)を治める長宗我部元親との関係を強化。その取次役が光秀だった。

ところが、大坂本願寺との戦いが終わった天正8年(1580)に信長は、四国の平定は元親に任せると言っていたのに一転、元親の支配地域を土佐と阿波の南半分に限定すると言い出した。

長宗我部元親。画名「絹本著色長宗我部元親像」(秦神社所蔵品)
長宗我部元親。画名「絹本著色長宗我部元親像」(秦神社所蔵品)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

これに元親が難色を示すと、信長は天正9年(1581)11月、阿波三好家出身の三好康長に、東四国の支配を任せることにする。そして同10年(1582)1月、元親には土佐1国だけを治めさせる方針を、光秀を通じて提示。しかし、元親から返答がないので光秀は、滅亡を避けるためにも信長の判断に従うようにと最後の説得を試みたが、元親の返答を待たずに、信長は三男の信孝を総大将とする四国出兵を命令。本能寺の変の翌日に当たる6月3日、四国に渡ることになっていた。

本能寺の変については、江戸時代に俗説が流行し、儒教の影響もあって、暴虐な信長に対する光秀の怨恨えんこん説が唱えられたが、じつは四国説は大正時代から主張されていた。

近年、桐野作人氏や谷口克広氏らが、一次資料にもとづく研究で四国説を強化していたが、2014年に『石谷家文書』(室町幕府奉公衆だった石谷光政・頼辰親子2代にわたる文書群)が公表され、光秀が信長の前で、元親をあしざまにののしる人物と論争していたこともわかった。

〈熊田千尋氏は「本能寺の変の再検証:先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合」(京都産業大学日本文化研究所紀要第25号、2020年3月)で、元親をののしったのが堺代官の松井友閑だったことを明らかにした〉

光秀は四国政策で敗北し、織田政権内における明智家の立場に強い不安を抱いておかしくない状況にあったのである。