競うように成果を出す仕組みを築く

一国一城の主になってから、いわゆる参謀を持たなかった家康は、家臣に対して強烈な分断政治を行った。

徳川家康

最初の例は、今川義元の下を離れて、岡崎城主となったときに行った「奉行三人制」である。「ホトケ高力、オニ作左、どちへんなしの天野康景」と言われた3人を奉行に置いた。仏のように優しい高力清長、鬼のように恐い本多作左衛門、そしてどっちつかずの天野康景を組み合わせたのである。

江戸幕府を開いてからも、家康はすべての役職に複数の人間を充てているから、その徹底ぶりは恐ろしいくらいだ。

大名支配においても、分断政治の手法は際立っている。1人の大名が、権限と報酬の両方を手にすることがないようにしたのだ。

幕政に参加する譜代大名は、そのほとんどが10万石以下。老中をはじめ幕府の要職に就いて、権勢は振るえるが、報酬は少ない。

逆に、外様大名には、60万石、70万石、なかには100万石というものもある。しかし、幕閣には入れない。

力と金を同時に持つと何をするかわからない。両方ともないと、不満が爆発する。そこのところを、家康は緻密に計算していたのだ。

現代では、組織のトップが自ら参謀機能を持つ必要があることは、前に述べたとおりである。それは1人のトップがすべての権限を握ることを意味しない。

家康は、分断政治という手法をとった。家康という絶対的なトップの下で、部下たちは限られた範囲とはいえ、それぞれが権限を与えられ、競い合うようにして成果を出さなければならない仕組みだ。

そうなれば、現場の実行者(企業ではいわゆるライン)も、参謀機能を備えなければならない。なぜなら、小さくても権限のあるところに、判断はあり、正しい判断をするためには参謀機能が不可欠だからだ。

つまり、トップにも参謀機能が必要であり、現場にも参謀機能が必要な時代となってきているということだ。

※すべて雑誌掲載当時

(構成=樺島弘文 撮影=小倉和徳)
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