政治家が劣化した原因は選挙制度にある

岸田総理の長男で総理秘書官のポストにあった翔太郎氏が、公邸内で忘年会を行う不祥事で更迭されたことをきっかけに、世襲政治への批判は高まっている。岸田総理が長男を総理秘書官に任継したのは、いずれ政治家として跡を継がせようとする意図が明白だったからである。2世議員どころか4世議員となるそうだ。

世襲についての批判をかわすため、形式上“公募”が採られているが、それは形式であって、公募した後、どのような理由で特定の候補者を選定したかは、明瞭ではなく透明性を欠く。公募という名のブラックボックスの中で、前の国会議員の後援会幹部が後継者を指名しているのが実態だ。

政治家が世襲議員ばかりになってしまう原因は、世襲議員を当選させてしまう有権者にあるという意見もある。しかし、有権者には選択肢が与えられていないのだ。問題は選挙制度そのものにあり、ここにメスを入れなくては政治の劣化は止まらないだろう。

中選挙区時代の世襲議員は優秀だった

実際、世襲議員だからといって全員が無能だったわけではない。

総理大臣になった橋本龍太郎は2世議員だったが、政策についても勉強した努力家だった。彼は、通商交渉でアメリカのカンター通商代表と渡り合った。小泉純一郎も郵政民営化を旗印に掲げ、既得権力と対峙たいじし、国民の中から大きな政治力を引き出し、それを動員した。かれらが政治家となったとき、選挙制度は中選挙区制だった。

当時の中選挙区制は広い選挙区から3~5人の議員を選出するものだった。例えば、現在は4つの小選挙区が存在する岡山県は、2区に分かれていた。旧岡山1区、2区とも定員5名だった。うち自民党は通常3つの議席を確保していたが、1名が落選し2議席にとどまるときもあった。他の社会党、民社党、公明党が、固定された支持層を持っていると自民党議員が考えれば、事実上選挙は、保守票を自民党3議員がいかに取り合うかという争いとなる。自民党はそれ以外の議員を公認しなかった。つまり自民党内の議員同士が2~3の議席を巡り当落をかけた競争相手になる。野党候補の票が伸びなくても、他の自民党議員が票を取り過ぎれば、落選する可能性がある。

自民党本部
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とりわけ、旧岡山2区では、加藤六月と橋本龍太郎によって“六龍戦争”と呼ばれる激しい選挙戦が展開された。二人にとって、単に当落を心配するだけでなく、どちらがトップ当選して自民党内の地位を向上させることができるかも、重要だった。旧群馬3区における福田赳夫と中曽根康弘という派閥の領袖間の争いは、上州戦争と呼ばれた。派閥の領袖だった中曽根を君付けで呼んだ山中貞則も、田中角栄の番頭格だった二階堂進と激しく競り合った。

このような競争は、多くの選挙区で展開された。私にとって印象に残るのが酪農が盛んだった旧北海道5区の政治家である。5名の定員だったが、伝統的に社会党が強く、1983年の選挙まで社会党は2~3議席を占めていた。こここでは、北村直人、鈴木宗男、中川昭一、武部勤の自民党議員が、競争した。