「歳を取ると記憶力が衰える」は本当か
私たちが時の流れを感じるのは記憶があるからです。過去と現在の様子を比べることで、時々刻々と変化する世界を感じることができます。過去の記憶がなければ、当然ながら心の時間は流れません。しかし先の実験は逆に、記憶が強固すぎてもやはり時間が凍てついてしまうことを意味しています。過去が新鮮すぎたら、それは現在と同じです。記憶が色褪せるからこそ、情報に遠近感が生じ、私たちの心の中に「現在」という瞬間が立ち現れるのです。
なるほど、私のようにすぐに忘れてしまう脳も悪くないようです。
歳を取れば、記憶力は衰える──人口に膾炙したこの俗説に、私は反対の立場をとっています。たしかに、老年性アルツハイマー病などの認知症になれば、神経細胞は脱落して、記憶力は低下します。しかし、これはあくまでも脳疾患です。実際には発症しない人のほうが多いのです。
解剖学的知見からは、脳の神経細胞の数は、3歳以降はほぼ一定で、100歳まで生きてもほとんど変化がないことが報告されています。つまり、脳という装置は経年劣化しません。
ではなぜ、歳を取ると記憶力が衰弱した気がするのでしょうか。いろいろな理由が考えられますが、一番の原因は、「老化すれば記憶力が衰える」と本人が思い込んでいることではないでしょうか。
高齢者になっても記憶力は変わらない
米タフツ大学のアヤナ・トーマス博士が『心理科学』誌に発表した実験結果は、この考えを裏付けています。博士は18歳から22歳の若者と60歳から74歳の年輩者を各64人集め、テストを行いました。単語リストを覚えた後に、別の単語リストを見て、どの単語が記憶した元のリストにあったかを言い当てる試験(*5)です。
試験前に「この記憶試験では、通常、高齢者のほうが成績は悪い」と説明したところ、若者の正解率は約50点、年輩者で約30点でした。
ところが、「これはただの心理学の試験である」として、記憶力への言及を避けると、驚いたことに、同じ試験にもかかわらず、若者・年輩者ともに約50点で差がなかったのです。
なぜか広く流布する「記憶力は年齢と共に低下する」という珍妙な社会通念。誤った常識が産み出す罪は深そうです。
(*5)Thomas, Dubois(Psychol Sci 2011). Reducing the Burden of Stereotype Threat Eliminates Age Differences in Memory Distortion