忠告は「正しいことを伝える」だけではだめ
自分が間違った道を歩んでいるとき、あるいは自分の間違いが明らかなときに、それを指摘してくれる人は多くない。
下手に口を出したら誤解を招いて嫌われるかもしれないなどと考えたり、結局は他人事だと思ったりするからだ。
だからこそ、こちらの顔色をうかがうことなく、違うことは違うと言ってくれる人がいてくれるなら、とても心強い。
忠告というのは、単に正しいことを相手に伝えるだけではない。その人に対する関心と愛情、そして心から相手を思う気持ちがともなわなければ、忠告とはいえない。
もちろん、必ずしも誰かの忠告に従わなければならないわけではない。その人の考えがそのときどきの状況に合わない場合もある。
でも、多くの困難を引き受け、勇気を出して忠告してくれる人がいたら、まずは誠意をもって話を聞く必要がある。
旧約聖書『箴言』13章1節には次のようにある――「子は父の諭しによって知恵を得る。不遜な者は叱責に聞き従わない」(日本聖書協会『聖書 新共同訳』)。
つまり、人の話を忍耐強く聞く態度が大切ということだ。周囲の人の言葉に耳をふさいだまま、自分だけが正しいと信じる姿勢は、やがて災いを招く。
言いたいことは相手の話を聞いてからでも遅くない
では逆に、忠告が必要ない場合というのは、どんなときだろうか。何十回、何百回と悩み考えたうえで身近な人に悩みを打ち明けても、次のような返事が返ってくることがある。
「いくら大変でも、そんなに愚痴をこぼすもんじゃない」
「君だけが大変だと思ってるの? みんな同じように大変なんだよ」
「やろうと思えばできないことはないのに、なぜできないの?」
一見するともっともらしい言葉ではある。しかし、仮に正しい指摘だとしても、結果的に相手を侮辱することになるような伝え方をしてはならない。他人の人生の重さを勝手に推しはかり、一般化する姿勢は危険だ。
誰かから悩みを打ち明けられたとき、共感と慰めが必要だと思ったら、まずは相手の気持ちを聞いてあげること。
そして、あなたは十分にがんばっていると、応援の言葉をかけてあげよう。
まず、その人の不安な気持ちを和らげ、少し時間をおいて、その人があなたのアドバイスを受け入れられる状態になったときに、考えをよく整理してから話をしたほうがいい。言いたいことは、相手の話をすべて聞いてから話しても遅くはない。
友達がまさに苦しんでいる瞬間だけは、黙って話を聞いてあげ、その気持ちを汲んであげてほしい。誰かの悩みについて、まるで裁判官のように問いただすのはやめよう。
話しかけるより、傾聴すること。批判より、激励すること。中途半端な忠告より、真心を込めて慰めること。
そういったことが、その人の力になる。