地位や名声に冷めた目を持つようになった

先述した通り、病理医と他の科との最大の違いの1つは「解剖するか、しないか」です。解剖は、患者さんの健康の向上に直接的には貢献しない行為ですし、時間軸で考えても、未来を向いている「治療」とは逆方向です。「解剖」は医療という世界の中でも非常に特殊な作業です。

前しか見ない集団の中に、後ろを見る人間がいるということは、組織の活性化のためには必要だと思うのです。流れ去る時間の中で、ゆっくりとものを考える人間だからこそ気づくこと、見えるものがあります。

私自身も病理解剖から様々な影響を受けてきました。一番大きいのは死生観です。生前にどんなにお金持ちだったとしても、逆に貧乏でも、亡くなったら誰もが遺体になります。お金も権威も消滅します。名誉も不名誉もあの世に持っていくことはできません。そうしたご遺体を解剖させていただく中で、この世の地位や名声に、あるときから冷めた目を持つようになったのです。

遺体とはその人の最期です。人生の末期を私たちに提供してくださったご本人、ご遺族の気持ちは果てしなく重いものです。その想いを受けて私たちは解剖を行います。身体に傷が刻まれていたとしたら、その傷は生きた証。とても尊いものです。

与えられた人生という場所で、その人なりに苦闘してきたという事実こそがなにより大切なのです。そういった生きる尊さを、私は医療現場で解剖という行為の繰り返しから学んだのです。

過去を見て未来の患者さんを救う

内科医なら病んだ患者さんを治すこともできますが、病理医が亡くなっているご遺体を生き返らせることは絶対にできません。

それでも解剖を続けるのは、未来の患者さんを救うためです。私たち病理医が行う解剖の一例一例が、臨床医の医療の質を向上させ、遺族の疑問に答え、公衆衛生にも貢献するわけです。

これは私たち人間社会の本質ではないかと思うのです。自分が生きているということは、過去の人たちがこの社会をつくってきたからです。

そして、今私たちがしていることが、後世の人たちの社会をつくるのです。これを連綿と繰り返してきたのが人間社会です。

自分の生命の長さを超えたつながりの感覚こそが、私たち人類と他の生き物たちとの違いであると思ったりもするのです。