死ぬ前に物などを整理する「終活」が流行っている。自分の死後のことを考えて迷惑がかからないように準備をすることは本当に必要なのか。解剖学者の養老孟司さんは「僕は終活は意味がないと思っています。死という自分ではどうにもできないことに対して、自分でどうにかしようと思うのは不健全です」という──。(第3回/全3回)
※本稿は、養老孟司、中川恵一『養老先生、再び病院へ行く』(エクスナレッジ)の一部を再編集したものです。
「終活」は無意味…
死ぬ前に物などを処分して整理する「終活」が流行っていますが、僕はこれも意味がないと思っています。死という自分ではどうにもできないことに対して、自分でどうにかしようと思うのは不健全です。
生まれたときも、気付いたら生まれていたわけです。予定も予想もしていなかったことです。死も「気が付いたら死んでいる」でよいのではないでしょうか。しかも死んでいることに自分が気付くことはありません。
僕もこれだけ虫の標本を持っていますから、「死んだらどうするんだ?」と訊かれます。そんなことは知ったことではありません。
今は箱根の別荘に保管していますが、ここも富士山が噴火したら一発で終わりです。コレクションなど、一生懸命貯め込んでも、何かのきっかけで無に帰してしまうこともあるわけです。すべては諸行無常です。
世の習いは何事も順送り
いろんな物を貯めこんで死ぬのは、残された家族に迷惑をかけるなどと言われます。でも僕はまったく問題ないと思います。
何事も順送りです。残された者は大変だけど、そういうことが順送りに繰り返されます。それが人生というものでしょう。
逆に物を整理して死に際をきちんとしようとするのは、僕ははた迷惑な行為だと思います。「死んだ後も自分の思うとおりに世界を動かすつもりなのか?」と。しかも、その世界は自分では見ることができないのです。
人が亡くなって、残された家族とか親族がいろいろもめるのは、後の人の教育だと思っていればよいのです。