仙台本店の若松は、売り物だったキャンピングカーを商談に利用した。まずは、瓦礫から使えそうなノートPCを引っ張り出す。なにしろ、販売ソフトはPCに入っている。プランの提案や見積もりなどPCがないと、やりにくかった。プリンターが破損したため、最初のころは手書きで書類をつくって商談していたという。
電気、ガス、水道とも不通だった。キャンピングカーには発電機能があり、車内コンセントをPCにつないで車内で接客をしたのである。そして暗くなれば、灯りがないので店を閉めた。
物流も途絶えていた。コンビニやスーパーは6時間ほど並ばねばならない。並んでも残っているのはたばこやスナック類ばかりだ。
「3食ともお菓子で空腹を凌いだ時期もありました。どんなに米を食べたいと思ったことか」と若松は言う。
家でも妻と3人の子どもの食べるものがなく、水も運んでこなければならない状況だった。「こんなときに仕事をしている場合じゃないでしょう」と責められもした。ほかの家はみんなパパがいるのにと。
「でも私の店舗には、それこそ食うや食わずで、何十キロも歩いてげっそりとして、ひげがぼうぼうになって来店される方も少なくありませんでした。私が休むわけにはいきません」
若松は、全社員に言った。
「困っているお客様に、中古車をできる限り迅速に提供するのが、我々の責務なんだ」
若松が注力したのは、ガソリンの確保だった。中古車を売っても、ガソリンがなければ購入者は困り果てる。もっているルートをフルに活用し、1台当たり30リットルを入れて納車をする態勢とした。3月中はガソリンスタンドの前は、いつも長蛇の列。流された車からガソリンを勝手に抜きとり、不法に販売する輩も現れた。この手のガソリンを入れ、車が故障したケースも相次ぐ。さらには、無資格で中古車を販売する不正行為が横行し、無法地帯と化した時期もあった。それだけに、若松はガソリンにこだわったのだ。
若松自動車商会の全従業員の安否が確認できたのは、3月下旬になってからだった。11日の午前、体調を崩して早退させた石巻店の営業マンともう1人、都合2人の社員と連絡が取れなくなっていた。だが、2人とも無事だった。小幡は「あいつを早退させるんじゃなかった」と悔やみ続けていた。当の早退した営業マンは、避難所に入り石巻店は流されたと考えていた。あるときひょっこりと仙台本店に現れ、「石巻店も無事だったのですか」と大声を上げる。「おまえこそ、みんなで心配してたんだ」と笑い話となった。
もっとも、社員は全員無事だったものの、その家族となると亡くなった人もいた。家も車も流されて、いまも避難所から通ってくる従業員もいる。
震災発生後、最初の1カ月は着の身着のままの客が続いた。小幡は言う。
「道はどこもかしこも泥だらけなんです。だから歩きの人も、自転車の人も皆泥だらけでしたよ」
「ごめんなさいね……」。石巻店で車を買った女性が差し出したのは、タンスの中で流されて泥まみれになったお札だった。すでに手付けで10万円を受け取った後のこと。「30万円で買える車を」という要望に、小幡は応えたのだった。小幡はそれを時間をかけて一枚ずつはがしながら数えていった。(文中敬称略)