2012年4月2日、東京辰巳国際水泳場。ロンドン五輪代表選考を兼ねた日本水泳選手権でのレース直前、前田は公介にこう告げた。
「ただ泳いでいるだけで楽しかった小さな頃のことを思い出して、めいっぱい楽しんで泳いできな」
400メートル個人メドレー決勝。スタート台に立った公介はわくわくしていた。スタートの合図とともに、歓声がわき上がる。観客席に洋一の姿はあったが、その隣は空席だった。またも貴子は「とても見ていられない」と、場外の売店をうろうろしていた。
やがて、ひときわ大きな歓声が響きわたった。レースが終了したのだ。電光掲示板には、公介がたたき出した日本新記録を示す数字が表示されていた。
五輪代表を射止めた瞬間の、公介のガッツポーズを貴子は見ていない。帰りの新幹線から「おめでとう」とメールを送ったら、「ありがとう」と返信されてきた。
「公介がオリンピック選手になっても、私たちの接し方はとくに何も変わりないですね。オリンピックに出て、それですべてが終わるわけじゃない。これからも公介がやりたいことを、できる限りサポートしてやりたいと思っています」
そんな洋一の言葉に、貴子がうなずいた。2人はオリンピックを現地で観戦する予定だ。
「でも、やっぱり公介のレースだけは見ていられないかも」と貴子が笑った。
(文中敬称略)
(鷹野 晃、干川 修(雑誌)=撮影)