あるレースから公介が帰ってきた夜、いつものように貴子は「もっとしっかりしなさいよ」とハッパをかけた。
「そういう言い方が嫌なんだよ!」
公介にそう返されて貴子は気がついた。
「ああ、この子はこういう接し方を嫌がる子だったんだって。17年も母親をやっていて、初めて気がついたんですよ。公介ってこういう子だって知ってた? と夫に聞いたら、知ってたよって。だったら早く教えてよと思いましたね」
洋一はレースの結果について、あれこれ公介に言わない。せいぜい「今日はよかったよ」とか、「残念だったね」とか、その程度だ。
「それからは私も反省して言わないようにしています。もっと早く気づいていれば、さらにいい親子関係を築けていたのに。もう、いまだに母親修業中ですよ」
公介がスランプを脱出したのは、シーズンも終盤を迎えた頃。シンガポールで開催された大会に出場した公介は、いつになくリラックスしていた。
「普段のレースでは互いによく知っている選手が多く、常に駆け引きのことが頭にあるんです。けれどその大会に出場していたのは外国の知らない選手ばかりで、そういったことを考えなくてよかった。じゃあ、レースだけを無心に楽しめばいいかと思えて」
それが功を奏した。レースを楽しむこと。ずっと忘れていたその気持ちを、公介は思い出したのだ。