英語は挿絵のない論文をいきなり読むようなもの

【藻谷】なるほど。象形文字=面であって、いろんな音や意味を振れる漢字と、表音文字のかなを組み合わせた日本語はその構造自体が、面と吹き出しを組み合わせにした漫画と同じ。

そういう日本語で思考している日本人が、表音文字のみの英語での思考に切り替えるのは、漫画しか読んだことのない人がいきなり挿絵一つない論文を読むようなもの。そういうことですね。実際にも、漫画も日本語も要点をとらえて速読できるし、画像処理と言語処理を両方伴うので、英語より複雑なニュアンスを伝えられる。

しかし私の場合には、意図して読む方ではなく話す方の英語を鍛えたおかげで、頭を切り替えることで漫画も論文も両方読めるようになって、世界が広がりましたが。

私はカタカナと漢字だけの戦前の文章を読むと頭にすっと入って来ないのはなぜかと思っていましたが、戦後はカタカナは外来語にあてるようになったので、カタカナ語はいわば第二の漢字として、象形文字的に脳が理解しているのかな、といま気づきました。

「イノベーション」とか典型ですが、「進歩」とかいうのと同じで、意味不明なのに一つの固まった概念としてすっと頭に入ってきます。これが「いのべーしょん」とか「しんぽ」と書かれていると、思わず「どういう意図なんだろう」ともう一段深く考えるのですが。

日本の学校教育がハマった「個性」の落とし穴

【藻谷】ところで先生は、日本の学校教育そのものはどうご覧になっていますか。

【養老】教育という言葉の意味にもよりますが、日本は「倣う」とか「真似する」とか「顰に倣う」というように、「学ぶ」より「倣う」ことに重きを置いてきました。古典芸能の教育が典型的ですが、師匠のやるようにやれということになっています。

言い方を変えれば、人真似を突き詰めると最後はオリジナルになるしかないという考え方があるわけです。徹底的に師匠の真似をしていくと、どこかで真似できないところに出る。それが師匠の個性であり、弟子の個性でもあるという考え方です。

しかし、戦後はずっと、そういう考え方は「封建的だ」という批判があり、「封建的でなぜ悪いんだ」とは言い返せませんでした。

【藻谷】その反動で「個性」を言い始めたら、子供たちが「普通ではいけない」「人と同じではいけない」と無理をして「個性」を出そうとするようになったりしてますね。

【養老】中高生に「個性」なんてそれほどありませんよ。昔、ある学生に「誰も君の隣の人と間違えないだろう、それが君の『個性』なんだよ」と言ったことがありますが、個性はあるに決まっています。逆にいうと、「その人はその人である」という個性に対する信頼感が消えてしまったのでしょうね。個性はあるに決まっていると思えば、個性を問題にすることはありません。