「ワザと転ぶサインプレー」もあった
平井はさらに実例を挙げる。
「相手が左ピッチャーで、こちらが一塁、三塁のチャンスでどうしても1点がほしいときには、一塁ランナーが途中でワザと転んで一、二塁間で挟まれて相手内野陣をかく乱している間に、三塁ランナーがホームを目指すというサインプレーもありました。後に、ヤクルトの選手たちがこのプレーをしているのを見たときには、“あっ、自分たちと同じことをやってる”と思ったことを覚えています」
これは、策としてはシンプルなものだった。
攻撃をしているケースで、例えば二死一、三塁だとしよう。九番打者が打席に入り、得点の見込みは薄い。そんな場面で野村が試みたのは、「一塁走者の偽走」だった。
「ここでのポイントは相手が左ピッチャーであるということです。基本はダブルスチールなんですけど、少しだけ一塁ランナーが早めにスタートを切ります。そこでワザと転ぶんです。完全な芝居です。このとき、三塁ランナーはすぐにホームにダッシュを切れる態勢を整えておきます。ピッチャーとしては、自分の目の前でランナーがコケてしまっているから、本能的に一塁に投げます。その瞬間に、三塁ランナーはすぐにスタートを切る。そして、一塁ランナーが一、二塁間で挟まれている間に得点を奪うという作戦でした」
野村監督が真剣なまなざしで行った「転ぶ演技指導」
一塁走者がランダウンプレーで時間を稼いでいる間に、何とか得点を奪うという苦肉の策でもあった。
「面白かったのは、あの野村監督が真剣な表情で転ぶ演技を実演してくれたことです(笑)。練習中は、“こんなので相手をだませるの?”と思うんですけど、意外にも試合では結構、決まりました。これも忘れられないサインプレーでした」
真剣な表情で野村が「演技指導」をしている。すぐに少年たちも実践する。野村が言う。
「いいか、すぐに転んじゃダメだぞ。少しスタートを切ってから転ぶんだ」
少年たちは和気あいあいと転ぶ練習に興じている。すると、傍らで見ていた沙知代オーナーからの叱咤激励が飛んでくる。
「洋平、ワザとらしいんだよ! もっと自然に転べ!」
名指しされた洋平は照れた笑いを浮かべている。和やかなムードでありながら、「1点でも多く点を奪うには?」という貪欲な姿勢は、少しずつチームに浸透していった。