バカは「課題」である

さて、神の恩寵は必ずあると信じている人や、道徳的にふるまう力は自分の意志で出せると考えている人には申し訳ないのですが、自分がもっている以上の力を出そうとする必要はありません。むしろ、そのとき自分がもっている力でなんとかしなければなりません。

少しご説明します。バカは絶対的な「悪」ではなく、相対的な「悪」であることはすでにおわかりでしょう。だから、一口にバカと言っても、程度はいろいろで、ひどいバカであればあるほど、即対処しなければならないこともおわかりになるでしょう。

バカが害を及ぼしそうなとき、あなたや他の人は、それを阻止するのに最適な対応を、その場ですぐにするよう求められます。

立派な人間になろうとする人の努力をあざ笑うようなバカの態度など、もはや気にしないことです。もうわたしたちにはわかっています。今、まさにこのバカに課題を出されているのは、完全にあなたです。立派な人間になりたいと思っているあなたが試されているのです。

そうやって、バカは課題だと考えると、この本のこれまでの内容を新しい視点で見なおすことができます。それに、無理に道徳心をふりしぼらなくても、蟻地獄から抜けだして二度と落ちないようにすることもできます。

バカは課題だと考えると、バカは絶対的な「悪」ではないと認識でき、バカとの相乗効果のネガティヴな部分(相手のバカさ)から、注意をそらすこともできます。

相手のバカさは、あなたがぼう然として冷静な判断力をなくしてしまうと、心の中で増幅し、拒絶の環が始まって、あなたまでバカになってしまいます。

バカに出会ったら、まずは、ただひとつの大切なものに注意を戻すだけでいいのです。何も変える必要はありません。その出来事が、あなたの人間性に対して投げかけてきている「課題」に注意を向けてください(出来事自体はどのようなものであってもかまいません)。

あなただけの課題

わたしが課題だと言うのは、バカはいわばあなたに声をかけているわけですが、その声がけには、手紙で言えば親展のような個人的な性質があることを強調するためです。

つまり、バカとの出会いは、偶然あなたに訪れた行動のチャンスであると同時に、人を相手にする出来事でもあります。それがたとえ、初めて会った知らない人で、この先二度と会うこともない人だとしても、その人は今、あなただけに話しかけています。

もうおわかりだと思いますが、バカに出会ったらまず、ふたつのことをしっかり意識しましょう。ひとつは、そのバカ自身が蟻地獄にはまっている最中だということです(どんな蟻地獄かは気にしなくていいです)。

もうひとつは、そうした状況では、あなたが、いわば唯一の希望だということです。わたしたちがみんなで一緒に向上して立派な人間になれるかどうかは、あなたにかかっているのです。

あなたまで蟻地獄に落ちないようにするために、しっかり覚えておかなければならないことがあります。それは、バカは、あなたの思う「立派な人間」という概念に当てはまらない人間がいるということの表れだということです。

その概念を守るべき人は、あなたしかいません。ですから、平和と融和を取りもどす役割は、あなただけが担っています。当然です。相手はバカなのですから、そんなことは期待できません。

したがって、相手がバカであればあるほど、あなたが賢くならなければなりません。あなたが事態の理解に努め、事態を好転させなければならないのです。

先の記事で書いたように道徳心に火をつける場合、ありあまるほど豊かな愛情が必要です。相手のしていることに愛情をもって対応しなければなりません。

でも実は、そうした愛情は、壮大な主義主張(神の愛、世界の調和、理性主義、プラグマティズム、精神主義など)の中にしか見当たらないものでもあります。

課題にしてしまえば、人はひとりで取りくむもののように思い、自分ひとりに課されたものだととらえて、すぐに行動できます――そう、バカはまるで封書のようです。あなた宛の、封をした手紙で、あなただけが開けるべきもの、というわけです。