宗教政党・公明党はなぜ存在するのか
宗教教団が政党をつくる。こういう、民主主義の原則と合わないことが起こったのは、創価学会の世界観によるところが大きい。
創価学会の人びとはたぶんこう思った。政治家は腐敗し、汚職にまみれている(そうだろう)。一般大衆を大事にする、大衆のための政治が必要だ(そうだろう)。いまある政党はどれも信頼ならないから、清潔で信仰を持つ人びとの新しい政党が必要だ(ここが問題だ!)。
この最後のところが、キリスト教にもとづく西側世界の考え方と、まるで違っている。そして、民主主義の原則から逸脱していく、原因になっている。本人にそのつもりがなくても。
キリスト教は考える。人間は罪深い。しょっちゅう間違いを犯す。社会が不完全なのは当たり前である。政党も同じだ。正しい信仰というものはある。だが、正しい信仰を持っている人びとが政党をつくったからといって、ほかの政党よりましなものができるわけではない。創価学会の信仰が正しいからと言って、創価学会が政党をつくれば政治がよくなる、とは決して考えないのだ。
そのかわりに、どう考えるか。人間は間違えるが、悔い改め、間違いを正すことができる。誰にもそのチャンスがある。選挙がその機会だ。有権者が議員を選び、代表として行動する権限を与える。だがそれは条件つきだ。有権者の信託に応えなければ、つぎの選挙で落選する。どこかに理想の政治や政党があるわけではない。不断にそうやって、互いの過ちを正していくことが、政治をよくする唯一の道である。
だから教会は、「公明正大で」「清らかな」よい政党などそもそも存在しないと考える。一人ひとりが神に導かれ、まあましな行ないがどうにかできるだけだ。─こう考えれば、現実的であり、民主主義の原則とも合致する。
「いい政党をつくろう」では政治はよくならない
創価学会は、既存の政党を信頼せず、憎み、前途がないものと思った。だから、ピュアな政党として、公明党をつくった。
これは、政治思想として、間違っていると思う。少なくとも、民主主義の考え方ではない。いい政党/よくない政党があります。いまある政党はよくない政党で、救いようがないです。だから、いい政党=公明党が必要です。これでは、政治はよくならない。むしろ、いまある政党の欠点を正して、少しでもましな政党につくり替えていく努力が大切だ。公明党さえよければいい、という考え方では、それ以外の政党がそのままになってしまう。
むしろ、創価学会としては、政治に対して厳しい批判の目を向け、個別の政策や候補者のよしあしをチェックする役割に徹したほうがよかったろう。そのためのメディア(新聞や雑誌など)も持っているのだから。