RIM社のルーツ

アップル社とその競争相手であるカナダのRIMとの戦いほど、互いが根本的に違うビジネス戦争はそう多くはない。

RIMは、1984年にラザリディスと大学で一緒に工学を学んだダグラス・フレジンによってカナダのウォータールーで設立され、携帯電話やページャー〔日本ではポケベルと呼ばれる〕などの情報機器だけでなく、LED照明システム、コンピューターネットワーク機器、画像編集システムまで、さまざまな製品を開発しはじめ、当初は市場におけるポジションを模索していた。

1992年、創業8年目で従業員14人になり、どうしても現金が必要になった。ラザリディスがジェームズ・バルシリーに出会ったのはこのときだった。バルシリーは意欲的な起業家であると同時に生来の営業マンで、オンタリオ州で育ち、トロント大学を卒業して、ハーバードでMBAを取得した。RIMに可能性を見出した彼は、買収を提案した。

ところが、ラザリディスは共同CEOとして彼を雇い入れ、経営面を任せた(バルシリー自身も自宅を抵当に入れて12万5000ドルをRIMに投資した)。バルシリーは挑戦的で、専制的でさえもあったが、世界中の携帯電話会社と協力関係を構築するにあたってRIMになくてはならない存在となった。

ステータスシンボルになった黒い箱

ラザリディスは子どもの頃から「スタートレック」のファンで、登場人物が使うポケットサイズの通信機器を見て想像を膨らませた。大学時代、先見の明がある工学部の教授に、無線でメッセージを送受信することがコミュニケーションにおける次の真なる飛躍的な進歩になるだろうと言われたことがあった。

ある電話会社が、ページャーのネットワークに関わる仕事でRIMと契約を結ぶと、ラザリディスはページャーの技術を学び、飛躍的な進歩をみずから実現する機会を得た。

ページャーは1949年にはじめて特許が認められたが、最初は一方向の通信しかできなかった。ごく初期のもののひとつが「テルアンサーフォン」で、送信機のある塔から40キロメートル以内にいる医師に無線で新しいメッセージがあることを通知した。

トランジスタが年々小さくなり、ページャーはさらに洗練されていき、ついに着信の電話番号が表示されるようになった。この小さな黒い箱は、医師や企業のCEOやその他の地位の高い職業に就く人たちがベルトにつけるようになるにつれて、ステータスシンボルになっていた。これを身につけるのは、呼び出しがかかるほど重要な人物であることを意味したからだ。

日本語版の携帯情報端末「BlackBerry(ブラックベリー)8707h」
写真=時事通信フォト
日本語版の携帯情報端末「BlackBerry(ブラックベリー)8707h」(2007年7月17日、東京・港区のカナダ大使館)

電話とEメールができる革新的な携帯電話の誕生

1996年9月18日、RIMは画期的な「インタラクティブページャー」を発表した。こうした機器としてははじめて、双方向でのメッセージのやり取りが可能になった。伝言を受け取るだけでなく、親指でキーボードを押して伝言を送ることもできた。1年もしないうちに、何十万もの人がこれを使いはじめた。