四十八願の3つのグループ

ちなみに、私は四十八願を3つのグループに分けると理解しやすい、と考えている。第1のグループは、第一願から第十六願までで、これらは阿弥陀仏が私たちを迎えるために、事前にどのような準備をしているのか、いわば私たちを迎えるための環境整備にあたる内容である。とくに、法蔵が考えている仏土では、人間の苦しみや悪業が一切存在しないこと、また、この世にある差別が一切ないこと、あるいは、自己が悟るだけではなく、他者を救うための身体的能力の保証、そして、阿弥陀仏自身が一切の生きとし生けるものを救うために、「無量の光明」と「無限の寿命」をもっていること。ここでいう「光明」は、智慧のこと。

第2のグループは、第十七願から第三十二願まで。これらの願は、私たちが「阿弥陀仏の国」に生まれるための条件、方法を提示する。そして、仏になったならば、どのような活動ができるのかを説く。このなかにこそ、本書のテーマである、阿弥陀仏による救済原理が明らかにされている。その中心にあるのは、第十八願である。

第3のグループは、第三十三願から第四十八願まで。今まで説いてきた諸願が実現しやすいように工夫された願がふくまれる。

どの願も実現している

注意を要するのは、こうした四十八にのぼる願は、いずれも、法蔵が「五劫」という途方もない時間をかけて選択した結果だ、ということである。つまり、それぞれの願の背後には、願として選択されなかった無数の願いがある、ということである。四十八願は、また、「誓願」ともよばれる。

なお、「阿弥陀仏の物語」によれば、こうした願はいずれも実現しているのであり、だからこそ、法蔵は阿弥陀仏になっているのである。しかし、疑問が生まれるのではないか。すべての人がまだ阿弥陀仏の国に生まれていないではないか。生まれていないどころか、およそ仏教に関心のない人や、他者を抑圧し続けている人、戦争に明け暮れている人が夥しくいるではないか。この世のどこに慈悲が貫徹しているといえるのか、等々、疑問は深まるばかり。法蔵は、自分の願いが実現しない間は、仏にならないと誓っていたではないか。法蔵が阿弥陀仏になったという以上は、その願いは、すべて実現しているはずではないか。