悪世を生き抜くための物語

さらに興味があるのは、「阿弥陀仏の物語」によれば、阿弥陀仏は、「五濁悪世」の真っただ中に登場してくる「仏」だという点である。「五濁」とは、人間とその世界の悲惨のことで、5とおりに分けて説明されている。

一つは、時代のひどさをいう。戦争・飢饉ききん・疫病が絶えないこと。「劫濁」という。二つは、思想の貧弱化、思考力の劣化。「見濁」という。三つは、人の考え方が自己中心を免れず、自己の価値観にこだわり、世界と人間をより深く考察する意欲が欠けていること。しかも、その自覚もない状況。「煩悩濁」という。四つは、人間自身の身体の資質が低下して、多病となり、精神もまた病む。「衆生濁」という。五つは、人間の寿命が短くなる。もとは、2万歳であった。「命濁」という。

こうした「五濁」の説明を聞くと、現代もまた「五濁」を免れてはいない、いや、ますます「五濁」が深まっている、という感慨をもたざるをえない。たとえば、アフリカで餓死した子供の遺体を解剖したら、胃から小石がたくさん出てきた! というニュース。日本でも、子供の7人に1人が貧困状態にあり、学校給食だけが唯一の食事という小学生たちが多数いる。パートの月収が5万円に満たない母子家庭。貧富の格差のひどさは、言語を絶する。世界の富の半分は、数十人に握られているという。こうした矛盾の解消に努力してきた人々も決して少なくないが、状況が変わらないということは、「五濁」が示す、人間の劣化そのものが原因と考えざるをえないのではないか。

小さな男の子の靴
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釈尊が味わった劇苦

こうした「五濁悪世」のただ中で、釈尊は、悟りに達して仏となり、人々に教えを説く。「阿弥陀仏の物語」によれば、「釈尊は、悪世に生きる人々に説法することが劇苦であった」、と記している。なぜなら、人間どもは互いに髑髏を握り、手を相手の血で染め、戦いに明け暮れている。そんな人間たちに向かって、教えを説くのである。文字どおり、「劇苦」のなかでの説法であった。そして、釈尊は、「自分が生きている間は、教えがかろうじて広まった地域は、安穏で平和であるが、自分が死ねば、ふたたび、もとの五濁悪世に戻るから、この経典を後世に残しておくのだ」、と遺言する。

歴史上のゴータマ・シッダールタ、つまり釈尊のイメージは、静謐な聖者であるが、「阿弥陀仏の物語」に登場する釈尊は、悪世のただ中で真理を説くために、途方もない苦労を重ねている。まさしく、「阿弥陀仏の物語」は、「五濁悪世」を生き抜く「よりどころ」を教える物語なのである。