いつか、すべての人が仏土に生まれる
こうした疑問に、優れた比喩をもって答えている人物がいる。それが、曇鸞である。曇鸞は、6世紀に活躍した中国仏教の高僧で、とくに中国浄土仏教の祖といわれている。
曇鸞は、いう。「すべての衆生がまだ仏にならないうちに、法蔵だけが阿弥陀仏になってしまうのは、たとえば、草木の山を焼くのに、木の箸を使うとして、草木をつまんでは焼いてゆくと、すべての草木を焼き尽くす前に、箸の方がさきに燃え尽きてしまう、というようなものだ」と(『浄土論註』)。曇鸞がいわんとするのは、ひとたび火がついた草木の山は、草木を集める木の箸が燃えてしまっても、いずれ全体が燃え尽きる、ということだろう。つまり、いずれの日にか、一切衆生は阿弥陀仏の国に生まれるのである。早いか、遅いかの違いでしかない。すべてが救われるためには、数万年かかるのか、数百万年かかるのか……。
「阿弥陀仏の物語」は法然によって甦った
ところで、「南無阿弥陀仏」と称えると、いかなる人間でも、死後、必ず阿弥陀仏の国に生まれて、早晩(遅かれ早かれ)仏になる、という教えがある。これは、阿弥陀仏の本願に基づく念仏だから、「本願念仏」という。「本願」の「本」は、阿弥陀仏がもと法蔵という名前であったことを意味している。この「本願念仏」の教えこそが『歎異抄』を貫いているが、この教えを発見した人が法然(平安後期から鎌倉時代の僧)にほかならない。法然は、「阿弥陀仏の物語」を、いわば革命的に読み直して、私たちの救済と直結した人なのである。「阿弥陀仏の物語」は、法然によって甦った、といってもよい。
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