現代人は、美意識の暴走で心を蝕まれている

アルトーの『神の裁きと訣別するため』では神がしらみ黴菌ばいきんに例えられた。それは、神が不可視の体制であり、人間の身体がその定律に則って整序させられてしまうからだ。神への単純な冒涜ぼうとくのためにこうした喩えをもちいたのではなくて、不可視だが現実に存在し、我々に厳然たる影響を――それも多くの場合は好ましからざる影響を――与えているということをこうして表現しているのだ。

神の裁きのもとでは、我々は自分たちを糞便的に、あるいは悪魔的にしか愛することができない。

不可視である神の存在が占めている変数の位置に、民という怪物を代入してみよう。ほとんど同様の方程式が成立するだろう。場面によっては、神と民とはほぼ同じものとして扱ってよい。彼らの裁きのもとでは、我々は自分たちを糞便的に、あるいは悪魔的にしか愛することができない。

誰かを叩く行為というのは、規範意識に則って汚染を排除するという重要な社会的機能の一つだ。そして本質的にはその集団を守ろうとする行動である。総員の善意と美意識が集積した末の帰結ともいえる。だがそれが過熱したときが恐ろしい。美意識の暴走によって心を蝕まれた人々が互いに攻撃し合うさまは、新しいウイルスのパンデミックよりもずっと黙示録的に見える。

著名人の不倫報道を「許せない」と感じたら

私はそもそも人間に一夫一婦制は向いていないという考え方なので、著名人の不倫報道に驚きもしないし、むしろ自分の意思をはっきりと世間に示すことができるのは心の健康の問題としては望ましいのではないかとすら思うのだが、世の中の大多数の人はそうではないようだ。

こういったニュースが流れる中でよく聞かれるのが「許せない」という言葉である。

会ったことも話したこともなく、利害関係にある相手でもないのに、よくそんなことが言えるな、と思うが、これが非合理的な人間の本質であると考えるとにわかに面白味を帯びてくる。

指をさして非難する複数の手
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「家族を裏切るなんて」「清純派だと思っていたのに」「子どもがかわいそうだ」など、対象者への怒りや憎しみの感情がニュースを目にする多くの人の心を騒がせ、数えきれないほどの「許せない」を生み出していく。

もし自分や自分の近しい人が何らかの被害を受けたのであれば、憤りや怒りが湧くのは当然だろう。しかし、自分や自分の身近な人が直接不利益を受けたわけではなく、当事者と関係があるわけでもないのに、強い怒りや憎しみの感情が湧き、知りもしない相手に非常に攻撃的な言葉を浴びせ、完膚なきまでに叩きのめさずにはいられなくなってしまうというのは、「許せない」が暴走している状態といっても過言ではない。