※本稿は、中野信子『脳の闇』(新潮新書)の第3章「正義中毒」の一部を再編集したものです。
制裁は本来、割に合わない行為だが…
誰かを裁く、という行動がある。相変わらず、不倫が報じられた芸能人へのネガティブな反応もすさまじい。この人たちの脳では、何が起きているのだろうか。
そもそも、制裁――サンクションを加えたくなる衝動、というのを、感じたことのない人はめったにいないだろう。自分にはそんな感情がない、と言い張る人もいる。けれども、まあ単に自分がそれを感じたことを忘れてしまっているか、自分をよく観察できないタイプなのか、そんな感情を持ったことがあると他人には知られたくないから隠している/黙っているかの、いずれかだろう。
まず、ルールを破った誰かに対して制裁を加えることで、得をする人は一体誰なのかを考えてみよう。有り体に言って、制裁を加える本人ではない。むしろ、制裁を加える本人は、その制裁に対する仕返し(リベンジ)と周囲からの悪評のリスクを負わなければならないため(仮に匿名であっても特定される可能性は常に付きまとう)、客観的に見れば、制裁というのは、さほど割に合う行動ではなく、合理的な選択とは言えない。また、制裁に掛かる労力、そして時間的コストを支払う必要があるという問題もある。
個人という単位で見たときに最も利得が高くなるのは「何も見なかったことにする」というチョイスである。アクションを起こすこと自体が、制裁そのもの、リベンジ行動への対応、悪評への応答を考慮した場合、時間と労力の損失になるからだ。
なぜ「不謹慎」を叩くと快感が得られるのか?
では、制裁を加える本人にもたらされる利得は何か。リベンジのリスクがあるにもかかわらず、それを行うのは何らかのインセンティブがあるから、と考えざるを得ない。しかし、想定できる利得というのは、実は制裁を加える本人の脳内に分泌される報酬(ドーパミン)だけだろう。何の関係もない人をバッシングして何の得があるのか、とよく言われるが、脳内の報酬という得があるのだ。むしろその報酬しかないというべきか。
それではなぜ脳は「不謹慎」を叩くことで快感が得られる設計になっているのか?
個人という単位では、まったく利得がないばかりか、損失が大きくなるかもしれない行動なのに、わざわざどうして、ドーパミンを分泌させてまでやらせるのか。生物としてはどんな目的を達成するために、そんなことをさせる必要があったのか。自ら(ドーパミンで誘導してまで)損失を被りたがる個体を出現させることで、利益を得る人たちは誰なのか。
それは、制裁を加える本人を除いたすべての集団構成員となる。
つまりこういうことだ。「不謹慎」とは協力構造を「汚染」するもの。ルールを逸脱している「汚染」を排除しなければ、集団全体に感染してしまう恐れがある。ルールの無効化をもたらし、ひいては集団そのものを崩壊させてしまうかもしれない。