なぜ脳は「正義中毒」にかかりやすいのか?
我々は誰しも、つい今しがたまで仲間であった誰かに対し、きっかけさえあれば皆で寄ってたかって私刑を加えずにはいられなくなるという、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っている、世にも恐ろしい生物種なのである。
もちろん、不倫は倫にあらずという意味の言葉であるから、文字通り「してはいけないこと」とされているわけだが、丹念に追ってみるとその基準も条件によってかなり多様なのである。性別や、その対象がみっともない姿をさらして平謝りに謝ったかどうか、「生意気」な言動をしていないか、我々大衆を舐めていないか……これらをクリアしてようやく、「禊」が済む。
人の脳は、裏切り者や社会のルールから外れた人といった、わかりやすい攻撃対象を見つけ、罰することに快感を覚えるようにできている。他者に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出される。この快楽にハマってしまうと簡単には抜け出せなくなってしまい、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないようになっていくのだ。
こうした状態を、私は正義に溺れてしまった中毒状態、いわば「正義中毒」と呼んでいる。この認知構造は、依存症とほとんど同じだからである。ずっと言い続けているのだが、あまり自覚的になってもらえる人は少ないようで、残念だ。正義中毒の犠牲に、あなたも、なってしまうかもしれないのに。
他人の言動にイライラする日々を送らないために
他人の過ちを糾弾し、自らの正当性が認められることによってひとときの快楽を得られたとしても、日々他人の言動にイライラし、許せないという強い怒りを感じながら生きる生活を、私は幸せだとはとても思えない。
この、誰しもが陥ってしまう「人を許せない」状態から、人間が解放されるための手立てはあるのだろうか。穏やかな気持ちで、寛容に生きるためには、いったい物事をどう捉え、ルールを犯した人に対してどう接すればよいのだろうか。また、糾弾される側に回ってしまった人が、人々をなだめるためには何ができるのだろうか。
まずは自分が正義中毒状態になってしまっていないかどうかを、真摯に見つめなおしてほしいと思う。自分はそんなことはしない、とどれほど思っていても、むしろ自分はそうしないと信じているからこそ、他者を貶めたり攻撃したりすることに対する認識が薄くなってしまうものだ。よくよく心のうちを観察してみれば、かなりの確率でルールを逸脱した誰かに対して怒りを感じている自身を発見するのではないか。自分の状態を自分自身で把握できるようになることはとても重要だ。