集団を守る働きが高まり、「汚染」狩りにつながる

だから、崩壊の引き金になりかねない「不謹慎」=「汚染」を排しておかねばならない。もちろん、それは一人でやっても意味はなく、集団内の個体が協力して汚染に対処する必要がでてくる。これは、すべての集団で起こり得る現象だ。そしてこの現象は、危機的な時に強まると考えられる。

さて、危機が起こると、人々にはどんな影響があるのか。危機的な状態が迫ってくれば、人々は互いに互いを守ろうとして、より親密な交流が活発になり、強い絆を構築するためのホルモン、オキシトシンの分泌が盛んになる。つまり、集団を守る働きが高まっていき、これが「汚染」狩りにつながっていく。

しかし、実際にその行為によって苦しんだ人たちが、本当にそんな制裁を望んでいるかといえば、恐らくそうではないだろう。

声を上げるのは、意外にも当事者でない場合が多いようだ。例えば現実に自分が不倫されたわけでもない、あるいは、自分が事件に巻きこまれたわけでもなく、被害者と面識もないような人が、あいつは許せない! 不謹慎だ! と言って怒る。ただ想像して、その行為を不謹慎だと判断したということになる。勝手な想像とは恐ろしいものだ。むしろ他人のことになど首を突っ込まず、自分のためにだけ生きていてほしいと思うが、この一文すらも介入的であるかもしれない。

根拠もなく他人を断罪する人の心理とは

「不謹慎」=「汚染」の検出は、人々にそれを判定する規範がなくては不可能である。ただ、規範は使われ方次第で、どんな人間でも断罪し得る、恐ろしいものともなる。

規範意識が高いところほど、いじめが起きやすいことがわかっているわけだが、これは規範意識から外れた人のことはいじめてもいい、という構造ができてしまうからだ。あなたが先にルールを破ったのだから、あなたのことは排除しても構わないはずだ、と。

男女間にも同様のことが言えて、決めごとの多い夫婦ほど離婚しやすい傾向にあるのだという。それは、二人で決めた「規範」からひとたび相手が逸脱すると、その行動を取った相手を許せなくなるからだ。

密告制を伴う恐怖政治は互いに断罪し合う仕組みによって、人々をそれぞれの規範意識で攻撃させ合い、分断し、コントロールする。誰もが誰をも許さない社会が構築されたら、どこで息をすれば良いのだろう。

ネットなどで第三者がさしたる根拠もなく他人を断罪してしまえるのは、正義の執行自体が快感であることに加え、他人を「あいつはダメだ」と下げることによって、相対的に自分の置かれている階層が高く見えるからでもある。さらに、いち早く糾弾する側に回ることで、他者から叩かれる可能性が低くなる、という防衛的な意味合いもある。